苦悩の向こうにあるもの
『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』感想文

川崎 益彦(40代 会社役員)

 
『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』
 
 今までにありそうでなかった本。『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』の第2章を読んで、僕はこのように思った。
 
 「なぜ吃音の悩みが理解されないか」「吃音者は具体的にどのようなことで困り、悩んでいるか」「吃音の悩みを深めるもの」「未来像が描けない吃音の苦悩」、これでもかというぐらい吃音者にとって辛かったことや情けなかったことの具体例が書かれている。(P.23〜)
 僕がこの本の中で最もインパクトを受けたのが、この第2章である。どれを読んでも、一人悩んでいたころの自分がよみがえり、苦しくなる。
 
 過去にも、吃音者の苦しみを書いた本はあった。特に、吃音者の悲劇を強調することにより、吃音を絶対治さなければ不幸な一生を送るといった吃音矯正の本は、僕も読んだことがある。
 でも『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』に書かれている多くの苦悩は、ただその悲劇を強調するのでもなければ感傷的になっているのでもない。ここに書かれているのは、伊藤伸二さんが今まで会ってきた何千人という吃音者から聞いた声であり、僕たちが吃音教室で見たり聞いたりする吃音者の生の声である。
 
 そしてその声、悩みが、この本の中で実に見事に整理されている。今までにも『新生』や『スタタリング・ナウ』に吃音者の体験談は数多く載せられてきたが、吃音者の苦悩だけを編集して、整理されたものを僕は読んだことがない。
 伊藤さんは、自分の吃音に対する考え方を述べる前に、あえてこれだけの吃音者の苦悩を整理してみせた。最初に書いたように、「今までにありそうでなかった本」と思ったのは、まさにこの点である。
 
 大阪吃音教室では「吃ってもいい」ということばがよく出てくる。吃音者でない臨床家やことばの教室の先生の中にも、このことばを繰り返し言ってくれる人がいるだろう。「吃ってもいい」、これはとても重いことばだ。
 
 この本に書いているように、吃音の苦しみを理解しないで「吃ってもいい」というのと、苦しみを十分に知った上で、それでも「吃ってもいい」と言い切るのは全然違う。
 僕は、吃音に関わる人たちに対して、吃音者の苦しみを理解せずに安易に「吃ってもいい」と言ってほしくない。吃音者も、いくら自分が悩まなくなったからといって、自分が苦しかったときのことを忘れて「吃ってもいい」とは言ってほしくない。
 
 第2章で吃音の苦悩を整理した後、第6章で伊藤さんは、吃音のマイナス面ばかり強調されてきた理由を明らかにし、それから「吃る力」について書いている。(P.103〜)
 この流れ、構成が見事だ。もしこの本が第6章だけだったら、「吃ってもいい」とか「吃る力」ということばは上滑りするようで、この本のような力は持たない。まさに第2章があってこその、「吃ってもいい」や「吃る力」である。
 
 他にも、特に水町先生が担当された章で、「大阪スタタリング・プロジェクトでの例会(大阪吃音教室)では…」という記述が頻繁に出てくる。OSPの会報『新生』が参考文献として使われているからだが、それだけ大阪吃音教室の内容はレベルが高いということの証明だろう。僕自身、大阪吃音教室に参加できて、本当にラッキーだと思う。
 
 この本では、伊藤さんの吃音に対する考え方がとてもまとまった形で書かれている。まさに伊藤さんの吃音論の総集編という感じだ。
 世界中の吃音者や専門家に大きな影響を与えてきた伊藤さんが、今後どんなふうに吃音の世界を展開していくのだろう。今からとても楽しみだ。
 
OSP機関紙『新生』2005年04月号掲載