「治したい」と「吃りたくない」は違う
『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』感想文

掛田 力哉(20代 教師)

 
『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』
 
 大阪吃音教室に通い始めて1年半になります。まだまだ短い期間ではありますが、その短期間の間にも私が見聞きした覚えのあるエピソードや教室での議論の様子が、本書には沢山紹介されています。
 
 教室には色々な思いをもって参加している人がいます。
 正に「例会」の名の通り、週に一度の吃音仲間との語らい、息抜きの場程度に思っている方もいますし、真剣に自身を見つめ、生き方を考える場として考えている方もいます。切実に悩みを抱えている人もいます。
 人それぞれ思いは違いますが、その様な色々な人が集まり、吃音というテーマについて時には真剣に、時にはバカ話に花を咲かせながら自由に発言しあえるという教室の雰囲気を私は気に入っています。
 しかし、そんな教室での何気ない会話や議論の中に、吃音を考え、研究する上で重要な要素が多く含まれていることを、本書は改めて教えてくれます。
 
 愛媛大学の水町先生が、吃音教室での、ある女性をめぐっての参加者たちのアドバイスを例にして「吃音の受容」について述べています。(第1章 P.19〜)
 それは、「吃音の受容」というと吃ることが全く気にならなくなる状態と誤解されがちであるが、実はそうではなく、日々吃音に困ったり、「吃りたくないな」という思いを持ちながらも、それに押しつぶされることなく、自己の責任や役割を果たすべく真摯な努力を続けること、それを通して自身の吃りに対する悩みや困難の比重を結果的に少しずつでも軽くしていくことではないか、という指摘です。
 
 水町先生自身は吃音者ではなく、もちろん最初からその様な見解を持っていたわけではありません。しかし、大阪吃音教室に参加する多くの吃る人たち、吃る人と関わる人たち、また初めて吃る人を見た人たちなど、様々な人たちを対象にした長年の分析、研究、また関わりのなかで、その様な見解に至ったということには、私たちの活動を考える上でも非常に深い意味があるように思われます。
 
 治ることない吃音を「治したい」ともがき続けるのではなく、「どもりたくないな」という恥ずかしさを持ちながらも、より良い人生を歩みたい。深く悩む人にはなかなかすぐには理解しがたいことかもしれませんし、悩んでいない人には改めて考えるほどのことではないかもしれませんが、吃音研究に人生をかけた研究者にそう思わせた何かが、正にこの教室に参加する皆さん一人ひとりの生き方や考え方全てに潜んでいることだけは間違いなさそうです。
 
 全国の書店でこの本を手に取る吃る人たちに思いをはせながら、是非皆さんも本書を通してあらためて、「吃ること」について、吃る人が集まって続けているこの活動について、考えてみませんか?
 
OSP機関紙『新生』2005年04月号掲載