『どもる子どもとの対話 〜ナラティヴ・アプローチがひきだす物語る力〜』読後感想
どもる私のナラティヴ・アプローチ
藤岡 千恵(大阪スタタリングプロジェクト)
 
『どもる子どもとの対話』表紙
 
 3歳頃からどもり始めた私が、どもりへの否定的なナラティヴを持つきっかけになったのは、どもる父からの言い直しだった。どもる度に言い直しをさせられるうちに「どもる私の言葉は父に受け入れられない」という思いを持った。
 
 小学校では、音を繰り返す私の喋り方を笑った数人のクラスメイトと、吃音に対して否定的な反応をした数人の教師によって、「どもる私は、他の人とは違う。どもりは治すべきもの」という思いを強くした。
 笑われることに耐えられず、人から特別な目で見られることを回避するために、私はどもりが目立たないような喋り方を身につけた。社会人になり、話す機会も内容も学生の頃とは変化し、話す場面への恐怖と劣等感を強くしたが、どもりが治ることも難しいため、どもりが目立たない話し方を続けて生きていくしかないと思っていた。
 
 もちろん、どもりを否定して生きていくこともできただろうと思うが、どもりを隠したままの私は、生きていくのが苦しくなった。私が幸せに生きるために、どもりと向き合うことを避けて通れないと思い、どもる仲間の存在に助けを求めた。
 『どもる子どもとの対話』の第4章の「それぞれのナラティヴが変わる」で何人もの人が語るエピソードに共通しているのは、他者の存在だ。どもる当事者、どもる子どもの保護者、どもりにかかわる専門家など立場を問わず、その人がもつ否定的などもりへのナラティヴを自分だけの力で変えることは不可能だ。
 
 私は大阪吃音教室という場で、自分の思いや体験をたっぷりと聞いてもらい、私の存在を認めてもらった。そのことにより私は、この世界に存在していいという承認をもらった。他の人がどもって喋る姿は、どもりを否定していた頃はまともに見ることができなかったが、どもりを受け入れたいと思った私には、どもれる人がうらやましく、まぶしく映った。「どもったままでも、明るく豊かに生きられる」。そのことが、どもりとともに生きていきたいと思う気持ちの追い風になった。
 長い間、否定的な気持ちを持っていた“どもる言葉をどもらない言葉に言い換える、『ことばの言い換え』”は、人との会話を円滑に進めるためのサバイバルスキルとして見方が変わった。
 大阪吃音教室が縁で、たくさんのどもる人に出会った。同じどもる人であっても苦手な言葉やシチュエーションも、どもり方も、どもりへの考え方もそれぞれ異なるが、苦労してきた経験や思いには共感することが多い。
 
 私は、父に言い直しをさせられたことをずっと恨んでいた。どもる仲間に出会って、少しずつ否定的なナラティヴが変化しても、父への根深い思いをゆるめることができなかった。私が2012年から参加し始めた吃音親子サマーキャンプで、どもる子どもの保護者の話を聞く機会があった。これまでも、どもる親の切実な生の声を聞く機会はあったが、サマーキャンプで、自分自身もどもるお父さんの子どもがどもり始めた時の思いを聞いた時に、私の父が重なった。どもる子どもの親は、こんな風に悩んだり安堵したりするのだ。私の父も、どもり始めた娘を前にして慌てたのだろう。自分と同じ苦労の道を歩まないようにと、父は娘のどもりが定着するのを防ごうとしたのだろうと思うと、父を恨む気持ちがスーッと小さくなった。
 
 大阪吃音教室に出会うまでは、どもるそのままの自分で生きる姿を想像したことがなかった。私のナラティヴが変化するために、安心して語れる場があったこと、他の人の語りを聞くことで、私自身の否定的な物語を書き換え、新たな視点に気づくことができた。
 私が「ナラティヴ・アプローチ」という考えに出会ったきっかけは伊藤伸二さんだ。この本のなかにあるように、1976年から伊藤さんが「吃音と上手につきあう」ために役立つ考え方や心理療法・精神療法などを取り入れたものが、現在の大阪吃音教室の講座の基盤となっている。私は大阪吃音教室に出会って、交流分析、森田療法、アサーション、論理療法、認知行動療法、アドラー心理学などを知った。それらを通じて、自分の歩みを阻むほどの悩みから解放するために役立つ考え方を学んだ。私にとって吃音はちょうど良いテーマだったと思う。私自身が吃音に悩んできたこと、どもりとともに生きていくために身につけておきたい考え方や対人関係のあり方など、吃音を通して考えると理解がしやすかった。
 ナラティヴ・アプローチも、言葉だけを聞くと何か特別なことのように思うが、否定的な物語をもってきた私が悩み、仲間に出会い変化してきたこと、どもりを通じて経験してきたことがナラティヴ・アプローチなのだと思うと身近な考え方のように感じる。
 
 私は、吃音に向き合いたくても一人では手に負えないと思ったときに、大阪吃音教室の仲間に出会った。それから13年経ち、吃音の悩みからは解放されたが、それでも大阪吃音教室で活動したいと思うのは、どもりの仲間と考え、語り、経験することが心の底から楽しく、わくわくするものだからだ。大きな時間の流れのなかで、私も変わり続けているし、人が変わることも刺激になっている。
 悩んできた経験や、変化してきたことなどを体験として文章にし、言葉にして語る機会を今でももらっていることはとてもありがたいことだ。せっかくどもりとともに生きているのだから、自分の経験を他の人にも役立ててもらえることが何よりも幸せなことだと思う。
 
 この本を読んで、どもる当事者、どもる子どもの保護者、どもりに携わる専門家など、あらゆる立場の人のナラティヴが変わるエピソードに勇気づけられた。人はいつでも変わることができるのだと背中を押してもらった気がする。
 これからも、どもりにかかわるなかで、自分自身や他の人の変化を楽しんで味わいたいと思う。
 
日本吃音臨床研究会機関紙『スタタリング・ナウ』2019年1月号掲載
 

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