『どもる子どもとの対話 〜ナラティヴ・アプローチがひきだす物語る力〜』読後感想
語り直すこと・語り継ぐこと
渡辺 貴裕(東京学芸大学教職大学院准教授 教育方法学)
 
『どもる子どもとの対話』表紙
 
 もう20年来「吃音親子サマーキャンプ」その他で私がおつき合いさせて頂いている伊藤伸二さんが、「ナラティヴ・セラピー」の国重浩一さんと出した新刊は、良い本だ!
 物語の語り直しによる、支配的物語(「どもりは直さなくてはならない」であれ「どもっていては豊かな人生は送れない」であれ)からの解放。自分独自の物語の紡ぎ直しが、第2章に収められた、実際の子どもたちとの対話に、それがよく現れている。
 
 この本からあらためて考えさせられたこと。
 教師やセラピストはいかに、「治してあげるべき何か」を持つ相手への上下の関係を結んでしまいやすいか、ということ。共通の目的へと共に取り組んでいく三角形の関係に立つのは、当たり前のようなのに、難しい。前者のほうが、ある意味、「専門家」として安心できるんだよなあ、きっと…。
 どもることに限らず、これはいろいろなこと(「低学力」に「問題行動」に…)にあてはまる。
 
 本書は、これまでの伊藤さんの本以上に、子どもの声を聞くとはどういうことか、そこで大人は何をできるのかとか、テーマの広がりゆえ、吃音への関心をもつ人以外にも入りやすいものになっている。また、「ナラティヴ・アプローチ」とはどういうものかを知る手引きとしても、具体例が伴っている分、分かりやすい。
 私にとっては、これまで伊藤さんの活動との接点というと、吃音親子サマーキャンプでの劇づくりの部分が強かったのだが(2018年に出た石黒広昭編『街に出る劇場』にも書いた)、今回の本の内容は、私が関心をもって取り組んできている「対話型検討会」やら専門職養成やらと重なる部分がおおいにあって、なんだかとても不思議な感じがした。
 それは多分、吃音親子サマーキャンプの劇づくりを教育モデルで捉えられてしまう(私の書き方のまずさのせいでもあるが)ことに対して私が抱いた違和感ともつながってくる。
 
 本書で出てくる、専門家自身の変容。沖縄の専門学校で言語聴覚士育成に携わる平良さんの言葉。
 「滋賀で行われた吃音親子サマーキャンプでは、子どもの力に圧倒されました。子どもは弱い存在、守らなければいけない存在と、私はどこかで思っていたのでしょう。」(p.190)
 「言語聴覚士が対象とする人のほとんどは、自分で語ることができませんが、どもる人は語ることばをもっています。その語りのなかに、その人の悩みや葛藤をセラピスト自身の価値観や経験から容易に想像し解釈してかかわる危険性を感じました。私も自分のことを語ることで、自分自身の思考が変わり、言語聴覚士に対する認知が変わり、そのことで行動が変わる経験をしました」(p.191)
 この語り、素敵だ。
 
 対象を「弱い存在」とみなす発想や安易にストーリーに当てはめてしまうような捉え方の問い直しの重要性は、教師にもそのまま通じる。この平良さんもそうなのだが、本書には、私の知り合いが多数登場する。
 その一人、宮城県女川町からキャンプに参加していたりなちゃん。小6のときの最初のキャンプで私は同じグループで、当時彼女は不登校だったはずだけれどキャンプではよくしゃべっていて、山登りしながら私に延々なぞなぞを出してきて(その大部分を私は答えられなかった)、…といったことをよく覚えている。彼女はキャンプが気に入ったようで翌年以降も参加して劇も楽しんで、学校も行くようになっていた。
 
 そんな彼女は、東日本大震災の津波で亡くなった。同じくキャンプに参加されていたお母さんも一緒に。彼女のことはずっと自分の心に重たく存在してきたし、やはり今でも彼女のことが書かれた部分を読むと涙が出てきてしまう。
 それでも伊藤さんは、りなちゃんとの対話や作文を紹介したうえで、書いている。「彼女のことは決して忘れず、語り継いでいこうと思います。」(p.161)。私もそうしたい、と思う。
 
渡辺貴裕さんの Facebook 投稿を転載
 

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