4月から新しい環境へ踏み出すあなたへ。
「電話応対はどうしよう」「朝礼で自己紹介を失敗したら…」と、吃音を持つ若者の不安は尽きないかもしれません。
今回、人生の山をいくつも越えてきた人生の先輩たちが、ご自身の体験とその中で得た「吃音とともに豊かに生きる知恵」を言葉にしてくれました。
一人ひとりのリアルな歩みと言葉が、これから社会という荒波に出る若者たちの背中をそっと押してくれることを願っています。
入社式など見知らぬ大勢の人たちの前で自己紹介をさせられることや、将来的に司会進行役にあたること。「絶対」に避けられない言い換え不可能な固有名詞があるからです。自分の「吃音(どもり)」に対しては、「なぜ自分だけこんなクセがあるのか」と面倒くさい存在に思っていました。
全社QC(小集団品質改善運動)大会の発表者となり、社長をはじめ全役員を含む全社員200余名の前で15~20分ほど一人でプレゼンテーションしなければならなかった時です。採点もされ、今後の会社員人生もかかっていました。当日までの緊張感は半端ではありませんでしたが、逃げずにやり切りました。決して上手ではありませんでしたが、その後何度も回ってくる当番もやり切ることができました。
相手(個人、複数にかかわらず)と誠実に向き合うことです。聞くときにはまず聞く。そして自分の言いたいことは、どもって言葉が出ないなら、言い換えてでもなんとか伝えること。吃音は身体に棲みついている精神作用や心理特性で、切り離せない「わたしの一部」なのだと思います。
どもることで不便や生きづらさを感じることがあっても、ともかく生きていく。その渦中で、吃音とうまく折り合いをつけて共存する。いずれ死ぬ時が来れば吃音もなくなるんだから。
今回はご本人が不在で、事前に送られた回答文が代読される形となりましたが、逃げずに立ち向かったエピソードに対して「まさにサラリーマンの鏡ですね」「目の前のことに誠実に向き合っていらっしゃる」と、回答からにじみ出る誠実さやご本人の在り方に対して、参加者からは深い感嘆の声が上がりました。
管理課にいた頃、会社の毎朝の朝礼の司会を15年間、毎日担い続けたことです。「今日は何月何日、何曜日です」と始まり、どもる人にとって言いにくい「1月」や「7月」などがどうしても避けられません。毎朝起きるたびに「どう誤魔化すか」ばかり考えて、15年間なんとか逃げずにやり通しました。
表彰式で50名余りの名前を読み上げる大役が回ってきた時は、正月休みを返上して自室にこもり、ひたすら名簿の名前ばかり特訓しました。本番当日の朝は通勤路のお地蔵様に「今日はなんとかうまくいきますように」と祈る日々でした。
「どもりながらでも、与えられた仕事を真面目にコツコツやれば、周りは絶対に見てくれている」ということです。
会社員時代、社長からみんなの前で「発音の練習をしろ」と厳しく言われたこともあり、ずっと「いつクビと言われるだろうか」とおののきながら過ごしてきました。しかし、定年退職の挨拶で「これからはキャンピングカーで日本中を回る」と伝えると、社長から「有給で行ったらいいから、会社に残ってくれ」と強く引き止められたのです。数字にも英語にも弱かった私ですが、「吃音があっても、日々の真面目な仕事ぶりを、きちんと評価してもらっていたんだ」と退職の日に初めて実感し、報われた気がしました。
社長から「発音の練習をしろ」と怒られても腐らずに逃げなかった徳田さんの姿勢が、「吃音があるからこそ自分の得手不得手を真剣に受け止め、真面目にやってきた。その結果が評価に繋がったのではないか」と喝采を浴びました。「真面目さと誠実さが何よりの証拠」と、多くの参加者が勇気をもらっていました。
職場での吃音自体はなんとか誤魔化せていたので心配していませんでしたが、自分が世間で何かの役に立つイメージをまったく持てず、社会人になるのが怖かったです。当時の自分は、世間の人たちを自分から隔てる「壁」のような存在だと思っていました。
社会人として長年過ごすうち、さまざまな事象の判断材料として吃音体験(自分が傷ついたこと、苦労したこと)を参照している自分に気づきました。「あ、あの人も本人なりの事情や痛みがあるんだろうな」と。今の私にとって、我が吃音は他者を眺める際の「窓」のような存在だと思っています。「壁」だと思っていたものが、いつしか人を知るための「窓」になったのです。
昔所属した団体で「ガリ版印刷(謄写版)」の仕事を任された時です。父親から「字が下手だ」と否定され続けていた自分の字が、特有の強い筆圧のおかげで「勢いのある迫力満点の文字だ!」と大絶賛され、通常の何倍もの集客を生んだのです。「自分はこんなことで人の役に立てるんだ」と実感できた体験が大きな自信になりました。
最初は「作り笑顔」で良いから、なるべく笑顔で前を向いて話そう。吃音を否定することをやめれば、吃音はだんだんとあなたの味方になってくれます。
「壁だと思っていた吃音が、他者を理解する窓になった」という表現が非常に印象的だとして、参加者に深く響きました。吃音を単なるマイナスとしてではなく、世界を見る哲学的なツールへと転換した視点は見事だと評価されました。また「まずは作り笑顔からでいい」という言葉に対しては、「西田さんの若い頃の暗い顔なんて想像できない!」と新鮮な驚きの声が上がり、ご本人は「昔は暗かったんです。だからこそ伝えたい」と笑いながら答えていました。
私は吃音であることをバレないように必死に隠して生きてきたタイプです。そして思い切って吃音のことを話した時に「そんなことで悩んでたの?大したことじゃない」と軽く見られることへの嫌悪感がものすごく強かった。私にとっては重大なことなのに、「分かるよ、私も噛むことあるある」と軽視されたりすると、「そんな簡単に分かられてたまるか!」と怒りが湧いて腹が立っていました。
「その気持ちのままでいい」と言いたいです。自分の切実な問題を軽く見ないでほしいという素直な気持ちだから、その気持ちのまま持ち続ければいいよと。
私は「怒り」や「悔しさ」で動くタイプで、「見返してやる!」というエネルギーで吃音教室に辿り着き、そこでスーツを着て働く先輩の姿を見て希望をもらいました。若者に絶対に伝えたいのは、「大事にしたい仲間がいること」です。一人では到底立ち向かえません。一人で抱え込んでいると、自分に怒りが向いたり、周囲に卑屈になったりと負のループに入ってしまいます。同じ悩みを持つ「仲間と共に生きる」ことを大事にしてください。
奥田さんの「スーツを着て立派に働く社会人の姿(先輩)を見て衝撃を受けた」というエピソードから、吃音教室のような「仲間がいて、モデルとなる先輩に出会える場」の意義が改めて参加者全体で噛み締められました。吃音との向き合い方が人それぞれ違う中で、「怒りがパワーになる」という等身大の言葉に救われた参加者も多くいました。
電話応対、人前での発表、雑談など、どもって隠していた吃音がわかった時の相手の反応が怖かったです。想像では、相手の態度が一変して「下に見られる」「からかいの的になる」という最悪の反応を考えていました。また、喋るのが不得手だからこそ「喋ること以外の仕事などでミスをした時の方がひどく落ち込む」というプレッシャーも抱えていました。ただ振り返ってみれば、バレた時の恐怖は「想像の中の恐怖」に過ぎなかったと実感しています。
自分には吃音の他に、どんな個性があって、何を大切に、どう生きたいかを知ることです。吃音ばかりに目がいってしまいますが、その陰に隠れた「本当の良さ」「別の個性」があるはず。それをもっと早く知ることが大事です。どもることは恥ずかしいことではないし、実は人は自分の吃音にそれほど関心がなく、気にしていないのですから。
今では、吃音との付き合いは「生き方を考え、判断するための辞書的なもの」だと思っています。人はひとり一人異なり、いろいろな生き方がある。多くのどもる人との出会いを通じて、そのことを学びました。
役員が出席する会議で、初めて議事に関わる説明と発表をした時です。どもりながらでも、自分に正直に誠実に対応すること??それがコミュニケーションの核心だと気づきました。
ある心理学者の言葉、『人生に最悪はない。不便なことがあるだけだ』という言葉を知ってほしいです。吃音のせいで不便なことがいっぱいあるかもしれませんが、その不便さの中で、自分がどのような選択をするか。その選択肢を探していくことが大切です。
もしどもって謝っている若者を見かけたら、こう伝えたい。「謝らなくてよい。あなたのままでよい」と。どもるのが私。吃音は私の個性の一つなのです。
実は、吃音は「別の言葉に言い換えたり、そもそも話すのを避けたりする」ことで周囲に隠して生活することができます。しかし、固有名詞などどうしても言い換えができない場面で突然どもってしまい、周りを驚かせてしまうことがあります。この「普段必死に隠しているからこそ、バレた時に相手が最悪の反応をすると思い込んでしまう」という恐怖の心理に対して、多くの参加者が深く頷き「とてもよくわかる」と共感の渦が生まれました。
また『人生に最悪はない。不便なことがあるだけだ』という心理学者の言葉は、今回の講座の中でも特に「若者たちに一番刺さる言葉だ」と絶賛されていました。吃音があったからこそ生まれる真面目さが謙虚さに現れているという声も上がりました。
「ツッコミベタの(気の利かない)相棒」のような存在です。本来はボケたいのに、都合よくツッコミを入れられない自分の相棒のような。自分ではコントロールできないもどかしさと、不安と焦りの毎日でした。
人に悩みを相談することが苦手で、気分転換も兼ねて本の世界に逃げ込みました。それは本の中に答えを求めたのではなく、「本の中に入ること」自体が目的であり、読書中は吃音の苦しみから解放される救いの時間でした。結果として、司馬遼太郎の歴史小説など、本好き・空想好きになったことは自分の大きな宝物です。
しんどい時は「逃げ」や「一時休息」を選択肢の一つと考えてよい。休息から再びパワーをもらって、勇気を持って前へ進めばいいんです。
「これでいい。君は君だ。吃音に支配されずに、我が良き召使いと考えられるかな」と伝えたいです。
もどかしさを「ツッコミベタな相棒」という言葉で表現した際、参加者からは「そこだけ急に芸人みたい!」と温かい笑いとツッコミが起きました。そして「本を読む時間は吃音から解放される時間だった」という切実なエピソードには、多くの参加者が「自分も同じように、読書や個人競技といった一人の世界に救われていた」と深く共感し、それぞれの逃げ場の確保がいかに大切だったかが分かち合われました。
私は今年の4月から働き始めます。「電話応対」など吃音にまつわる不安だらけでしたが、先輩方の『人生に最悪はない。不便なことがあるだけだ』という言葉にとても心が軽くなりました。
特に響いたのは、「電話が苦手だからこそ他部署へ直接対面で話しに行っていたら、『足しげく通う真面目な人だ』と逆に高評価に繋がった」という話です。自分も対面ならプラスアルファの情報も得られるし、仕事の結果としてもプラスになる。メールばかりに頼らず、いっそ対面で伝えに行けばいいんだと、前向きな実践の知恵をもらいました。先輩方のリアルな体験を聞くことで、自分の抱えていた不安の正体が見えてきた気がします。
Aさんの気づきに対して、先輩方からは「自分たちも電話が嫌で足を運んでいた結果、『誠実な人』としての信頼がにじみ出ていたのだと思う」という共感や笑いが起きました。これから社会に出る若者のリアルな不安を受け止め、それに対する実践的な知恵が継承されていく、この教室ならではの素晴らしいやり取りとなりました。
今回の「自分の吃音を表現する」講座では、長年吃音とともに歩んできた先輩たちから、数々の力強い言葉が贈られました。
自己紹介の緊張、電話応対のプレッシャー、そして吃音を隠し続けることで募る「バレて最悪の反応をされたらどうしよう」という不安??。これから社会という新しい環境へ飛び込む皆さんが抱える悩みは、決してあなた一人のものではありません。先輩たちも同じように傷つき、悩み、時には「逃げたい」と葛藤しながらも、今日まで社会の最前線で踏みとどまって生き抜いてきました。
先輩方の歩みから見えてきた大切な真理があります。それは、「言葉が詰まったとしても、その人の誠意は絶対に伝わる」ということです。流暢に話せなくても、与えられた仕事や目の前の相手に対して真面目に向き合い続ければ、その懸命な姿勢は必ず周囲の人々が見て、評価してくれます。コミュニケーションの核心は、立て板に水のように喋ることではなく、自分に正直に伝えようとする熱意なのです。
時に吃音は、人と自分を隔てる「壁」のように思えるかもしれません。しかし、自分が吃音による痛みを経験しているからこそ、他者の痛みや事情に優しく寄り添える「他者を理解するための窓」へと変えていくことができます。「人生に最悪はない。不便なことがあるだけだ」。この言葉が示すように、吃音による不便な状況の中でも、自分がどう生きたいかを模索し、自由に選ぶ権利が皆さんにはあります。
しんどい時は、自分の心を守るために一時的に引いて休んだり、本や趣味の世界に逃げ込んでも良いのです。怒りや悔しさをパワーに変えても構いません。休んでエネルギーが溜まったら、また踏み出せばいい。そして何より、あなたには同じ苦しみを分かち合い、共に笑い合える「仲間」がここにいます。
どんなに不安な夜があっても、大丈夫。まずは作り笑顔からで構いません。少し背筋を伸ばし、顔を上げて歩んでいきましょう。吃音という個性を「我が良き召使い」として連れ歩きながら、どうかあなたらしく、これから続く人生の旅を豊かに楽しんでいってください!
例会 2026.03.06「自分の吃音を表現する」 完