2024年度 最優秀賞
声めぐり
山田 舜也(やまだ しゅんや)
小学生の頃、学校行事で、『鶴の恩返し』のおじいさんの役をやった。
主役に抜擢されたのは、3学期の終わりまで、僕がクラスの中で仕事らしい仕事を一つもこなしてこなかったからだ。「1年間で、クラスの全員が、なにがしか1回は、大きな仕事に挑戦してみる」。それが、そのときの担任の先生の方針だった。たぶん、生徒一人ひとりに、役割や達成感をもたせてあげようという、教育意図があったのだろうと思う。
だから、主役に抜擢されたけれど、やりたかったわけでは全くなかった。僕にとって演劇のイベントは、運動会の予行練習だとか、卒業式のシュプレヒコールの練習だとかとあまり変わらない、学校行事として企画される「あまり楽しくない集団イベント」の一つでしかなかった。
当時の僕はそれほど反抗的な子供ではなかった。大人のやることに大きな疑問を抱くほどには、頭のいい少年ではなかった。田舎くさい、ちっぽけな少年だった。事前練習でも、先生の言われるままに、セリフを練習した。「おしゃべり」をしたり、ふざけたりせず、なるべく「いい子」にふるまった。主役を演じたけれど、あまり凝った演出はなかったし、演技についてのこだわりみたいなものも特になかったので、上演後の達成感は多分ほとんどなかった気がする。
むしろ、ヤキモキしていたのは、先生たちの方だったようだ。どもる子が芝居をする。しかも、主役を。たぶん、事前にいろんな調整や、もしかしたら、職員会議もあったのかもしれない。上演後は、やや過剰に褒められた。「言葉がつかえるのに、よく頑張ったね」。
その言葉に、むしろ違和感を覚えた。上演前、たしかに僕は緊張してはいたが、それは、「吃音があるから」だとか「どもらないように言えるかどうか不安だったから」ということではなかった。多くのほかの子どもたちと同じように、舞台の本番前に緊張したという、ただそれだけのことだった。普段から、どもりながらも音読もしていたわけで、「吃音を持っているから、話すことに関しての配慮が必要だ」という発想そのものが、当時の僕にとっては、思いの至らないことだったのである。「どもるから、演劇ができないのではないか」とか、そんな風には思ったことすらなく、だから、「吃音があるのに、演劇をできたことがすごい」と一方的に眼差ざれることの方に、むしろ、「僕自身が吃音をもって生きていること」についての「理解されなさ」を覚えた。
でも、その反発は、もしかしたら、たとえていうのなら、セロ弾きのゴーシュが『インドの虎狩り』を演奏した時に、周囲に感じていた反発に近いものだったのかもしれない。たぶん、その時の僕は、まだ、何かが見えていなかったのだ。
思春期前の一時期、僕の吃音は軽くなった。そして、思春期を迎えて、僕の吃音はふたたび悪化した。
中学2年生の頃、国語の音読の時間や、自己紹介や、作文発表で、ひどくどもり、からかいやいじめを経験した。優しい先生からの優しさには違和感を覚え、練習すれば治ると思っている先生の思慮の浅さを冷静に軽蔑し、「心から笑えるようになればどもらなくなる」と考えて励まそうとする先生の情熱に、ただ戸惑った。すべての先生たちのかかわりはどこかトンチンカンだったが、しかし、大きな心の傷にはならなかった。誰も何もできないことはよく知っていたし、誰かに何か助けてもらいたいとも思わなかったし、理解されないことについてことさらにわかってほしいとも思わなかった。むしろ、理解したいだとか、分かったような気持ちになりたがる周囲の人たちの傲慢さを、遠くから冷静に葬り去るような眼をして眺めていたような気がする。症状の最も重かった思春期の時期、僕は、そんな風に、孤独であった。
ただ、「言葉への思い」は、その時期、強く芽生えはじめていた。理解されたいとは思わず、理解されることを恐れながらも、「自分が表現したいのは、そういうことではないのだ」という思いは、自分の中で何度も何度も増幅、沈殿していった。難発で全身が硬直する。伝えたい言葉が自分の中には明確にあるのに、その言葉は表には発せられず、相手には、とどかない。言葉を言い換え、その場をやり過ごす。相手とのコミュニケーションが終わって一人になった後、よく自問自答をした。「ちがう。ちがうのだ」「僕が表現したいのは、僕が言いたかったのは」「そういうことじゃない。そういうことじゃないのだ」。
相手に伝えたい言葉がある。繊細に届けたい、選び抜きたい言葉がある。しかし、不本意にしか、言葉を発せられない。「まあいいか」と欲望を無視したり、合理化して、自分の中にあったはずの思いをごまかしたり、何かを遮断をする。とりあえずその場に適応するために、あいづちや当たり障りのないような言葉だけで過ごしてしまう。言い換えをしてもいいだとか、それだってサバイバルなのだとは、肯定できない自分がいた。
吃音は、他者や世界とつながる上での、壁でもあり、くぐり戸でもあった。さまざまな立ち現れ方をする、僕の身体であり、僕の言葉そのものであった。言語化しきることのできない、しかし、言語化にあたって、強い身体的な実感とともに体験される、言葉そのものの体験。確かに存在するのに、つかみきることのできない、つねに自分の中にあり続ける「問い」として、思春期の僕は、吃音を携え続けていた。
演劇について魅了されはじめたのは、その頃だった。本格的な勉強などしたことはなかったが、いろんな声を模倣し、日常生活では絶対に出すことのない声の表現の幅を、少しずつ広げていった。ただ、その声や身体は、一人でいるときには出せても、他者に晒すことのできないものだった。強くあこがれながらも、演劇部に入ることも、舞台に立つこともなかった。一人でいるときには、自分の身体や声で遊ぶことはできても、その身体や声で、他者とつながることは、できない。たぶん、その頃の僕の声や身体は、本質的に、「独り言」だったのだと思う。竹内敏晴の著書に出会い、身体に向き合い、他者と深くつながろうとすることについて、真剣に格闘する言葉に魅了されながらも、しかし、そうした関係性に参加することのできない自分を、より一層意識した。
表現としての言葉は、今よりもはるかに未熟であった。言葉そのものについての納得できなさを覚え、言葉についての強いあこがれを抱きつつも、はるかに未熟に、僕は思春期を過ごした。部屋で一人で、まるで虹を追いかけるような、屈折率0の液体から透明なガラス玉をすくいあげるような何かを、僕は求めていた。
自助グループは、言葉の不思議さをさまざまな形で目の当たりする、不思議な空間である。
同じ言葉でも、自分の口から出た言葉として体験した時と、聞き手として体験した時とでは、まったく違ったものになっていることがある。かつて自分が語ったはずの言葉が、ブーメランのように、アイロニックに、聞き手として自分自身に迫ってくる。そして、言葉の伝わらなさについて理解したり、そして、その伝わらなさを理解した上で、かつての自分自身に対して、それでも対話的に接してくれた人のことを思い出すこともある。文章で書かれたら、深刻そうな言葉が、口に出してみると、なんとも、滑稽な言葉に変質してしまうこともある。『ゴドーを待ちながら』のように、不毛な場にいつまでもいつまでも、とどまり続けているように錯覚することもあれば、今までに何度も話したはずの言葉を、0から話すように、自分が新鮮に話しているのに気づくこともある。
自助グループに参加をし始めたことで、僕は、それまでとは違った形で、様々な声や言葉と出会い、それらを知ることになった。そこで語られる言葉の数々は、それぞれが自分自身について語っているにもかかわらず、過去や未来や、自分自身や他者と、さまざまな形で、有機的につながりあった。それぞれが自分のことを語っているのに、「独り言」ではなく、僕と確かに「つながりあう言葉」たち。幾重にも循環し、出会い続ける言葉の海の中で、僕は思いもよらずに、揺さぶられ、ほどけ、少しずつ変化をしていった。
サマーキャンプでは、演劇が上演される。どもる大人たちが芝居を上演し、先輩のどもる子どもたちがどもりながら演技指導をし、年下の子どもたちも、どもりながら演じあう。そこには、様々な身体と身体の出会いがある。言葉が、つながろうとする声として、身体から身体へ届けあわれる。僕が小学校の学芸会では決して経験することのなかったもう一つの「循環」がそこには存在していた。
この場に、身を任せてみよう。
初めてのサマーキャンプで演劇を上演した帰り道、ひどく泣いた。身をゆだね、声を届けることだけに集中した演技は、それまでの作りこんでいた「独り言」の演技に比べれば、多分、決して、うまい演技ではなかったと思う。しかし、自分の声で、相手に、呼びかけることが、はじめてできたような気がした。ああ、こういうことだったのか、と思った。視野狭窄になりながら、一人で、「理解されなさ」を抱え、引き渡してなるものかと、意固地になりながら、しかし、目指そうとしていた、しかし、それが何なのか、分からなかったもの。僕が探していた身体や声とは、こんなことだったのか。はじめて自分の身体が肯定された気がして、横隔膜をけいれんさせ、何度も泣き続けた。客観的に見れば、おそらくなんということのないような、それができたからといって何ほどでもないようなことに、僕は泣いた。自分が何を隠そうとしていたのか、何が肯定できなかったのか、それを、正確に知ることが出来た気がした。そして、それを自覚させてもらえることが、どんなに難しくてありがたいことであるのかも、よくわかった。
コロナを経て、僕はまた、身体を隠すことに慣れてしまった気がする。日常生活をサバイブする上では言い換えも否定すべくものではない。作りこんだ身体も声も、それもまた僕の身体や声の一部である。涙の体験も、長くは続かない。それでも、表現としての声や言葉を、これからも、大事にしていきたい。
【作者感想】
受賞、すごくうれしいです。ただ、自分で言うのもなんですが、「不思議な文章が選ばれてしまったなぁ」という思いもあります。歴代のことば文学賞のスゴい作品をたくさん知っているだけに、「本当にこれが最優秀賞でよいのだろうか」という思いが正直なところです。(とはいえ、もちろん、めちゃくちゃうれしいのですが。)
執筆時は、なるべく丁寧に自分の体験を言語化しようと考えておりました。しかし、本文の内容とも通じるところがありますが、読み返してみると、結構滑稽な文章にも読めます。あらためて言葉とは不思議なものです。
僕は竹内敏晴さんに直接お会いすることはできませんでした。だから、竹内レッスンが実際にはどういう場だったのか、本当のところはよくわからないところがあります。ただ、それでも、僕が演劇で体験した内容は、すくなくとも僕にとっては、大切な体験でした。どこまで正確に表現できたのかは心許ないところもありますが、今回それを言葉にできたことは、よかったです。
2024年度受賞全作品ページ
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2024年度 優秀賞
還暦を過ぎた私が今思うこと
佐々木 和子(ささき かずこ)
言語障害とは、発音が不明瞭であったり、話し言葉のリズムがスムーズでなかったりするため、話し言葉によるコミュニケーションが円滑に進まない状況であること、また、そのため本人が引け目を感じるなど社会生活上不都合な状態であることをいう。吃音は言語障害の1つにあげられている。
私には吃音がある。長い間どもることを恥じて劣等コンプレックスの中で生きてきた私にとって、吃音はまさに治すべき障害だった。
子どもの頃の私は、どもりは治るという世間の常識を疑うことなく信じていた。小学校に上がり他者との違いに気づいた私は、小学校2年生の夏、流暢に話す普通の人になるために、両親に頼み込んで「どもりは必ず治る」というふれ込みの吃音矯正所に通った。そこでは、ゆっくりと節をつけて話す練習が繰り返された。「こんなことをしても私のどもりは治らない! 治るわけがない!」私は落胆し、失望した。人は治るのに私は治らない。治るはずのどもりをいつまでも治すことができない私はダメな人間で、人より劣っている。私は私の中にあるどもりを呪った。
小学校4年生の秋、仲良くしていた友だちから「どうしてどもりを治さないの?」と尋ねられた。「私だって治したい! 精一杯治す努力はしている! 矯正所にも通った! けれど治らなかった! どもりはどうにもならないものなのに!」と、私は心の叫びを返すことができなかった。簡単に治るはずのどもりを治すことができないダメな自分を見抜かれるのが怖くて、「癖だから」と悲しい言い訳をしてその場を取り繕うことしかできなかった。
それからの私は、どもりを隠すために人前で話すことを止めた。自分を守るために厚く頑丈な壁を築き、どもりが表面化する場面から徹底的に逃げ、できないことはすべてどもりのせいにして心を閉ざして生きていた。
社会から障害であるとみなされている吃音は、当時の私にとって、あってはならないもの、排除しなければならない得体の知れない異物だった。私はその異物を自分で説明する、語ることばを知らなかった。説明できないことは沈黙するしかない。「なぜどもるの?」「なぜ治さないの?」等、他者からの問いかけに答えることができないまま沈黙の世界で生きる中で、異物はどんどん大きくなって私を押しつぶしていった。
私は逃げ場所を求めて言語障害児教育課程のある大学に入った。そこで、初めて「吃音は治らない」とはっきり教えてくれる人に出会った。どもりが治らなかったのは私の能力や努力が足らなかった訳ではなかった。小学校4年生のあの時「吃音は治らない」という事実を知っていたら、「どもりは治らない」と説明することができたら、私はあんなにも苦しまずに済んだのかもしれない。
どもる人はただどもる話し方をするだけなのに、なぜ一方的にあなたは「異常である」という烙印を押されて、正常化をめざす言語治療の対象にされ、その話し方を治すよう強いられなくてはならないのか。そしてどんなに努力しても流暢に話す人にはなれない現実を前にして、自分の存在までも否定する苦しみを負わなくてはならないのか。それは、どもる当事者が「どもりは治る」という社会通念を言われるままに信じて、「社会の定めた普通」に入れない自分を自己否定しまうからではないのか。
社会は多数派が認めた枠組みが常識となる。その枠に入らないマイノリティは多数派である社会にその存在を否定され同化を迫られる。マイノリティが社会基準に合わせようとして同化の道を歩み続けても、決して多数派にはなれない。どんなに努力しても違いは違いとして残る。そして、この違いを誰よりも本人が自覚しマイナスに意味づけてしまうことにより、このマイナスがある自分、同化できない自分を責め続け、自己否定の連鎖に苦しむことになるのである。マイノリティは少数派として生きることでしか自分の存在を認め、自分に自信を持つことはできない。どもる人はどもる人として存在すればいいのだ。自分の人生を生きるためには、社会の常識が本当に正しいのかを疑い、納得するまで思考し、自分自身の考えを持つ学びが必要となる。
吃音が治らないものなら、その存在を認めて付き合っていくしかない。私が通っていた大学では、この考えにたどり着いたどもる先輩たちが、仕事を終えて集まり活動していた。私は生き生きと生活している彼らの姿を見て、どもりがあっても社会に出て生きていくことができること、さらにどもることがその人の魅力になりうることを知った。
先輩たちの姿に勇気をもらい、私も就職し社会人になった。採用されて初めての会議での自己紹介では、全く声が出ず一言も話さないまま着席させられた。これが私の社会人としてのスタートだった。しかし、仕事に就いたのだから今までのように逃げてばかりではいられない。私は自分の責任を果たすために必要に迫られて恐る恐る話す場面に立つようになった。今となっては笑い話になるような恥ずかしい思いや悔しい思いをたくさんした。だがその全ては私にとっては「なんとかなった!?」という成功体験だった。どもってもとにかく話したのだからそれでいい。ひどくどもって、たとえ相手にうまく伝わらないことがあったとしても、当時の私には逃げずに役割を果たしたことが何よりも重要だった。
しかし、しばらくすると話し終えた後、安堵感に包まれながらも情けなくみじめな思いが襲ってくるようになった。この気持ちはどこから出てくのだろうか。私は皆と同じようにしゃべることができないことに優劣をつけているのか。なぜ私はどもることを恥じ、どもることを劣ったものと考えるのだろうか。私はどもることで生じてくる感情や思いに向き合い、なぜそう感じるのか、なぜそう思うのか、と自分に問いながら心の奥底にあるものを探っていった。すると「皆と同じになりたい」という願いに行きついた。私を苦しめていたのは「皆と同じでなくてはならない」という私自身の思い込みだった。私の中に蓄積していた数々の思い込みを吟味し、事実を明らかにしていくことで、私は「どもり」から解放されていった。
私はどもる話し方しかできない。だからどもりながら話す。周りの人とは違うけれど自分にできる話し方で話す。それでいいではないか。私はどもる話し方をする人なのだから。どもることを認めると、私の中の異物であった「どもり」は私の中に治まり、姿形を変えていつしか私の核となった。私は治療される吃音者からどもる話し方をするただの人になった。
25年前、私はある研修会で「人は人の中で生き、繋がりの中で幸せになっていく。吃音があると人の中で生きるのが辛い訳だけれど、物事には両義性がある。だから良い面もあるはずだ。あなたにとって吃音があることの良い面は?」と問われた。その時、私は吃音の良い面について理解しているつもりだった。しかし、自分のことばで言い切ることができなかった。この時の不全感はいつまでも私の中に課題として残った。あれからずっと私はこの問いに対する答えを探してきた。多くの経験や学びを経て、私はようやく吃音は私の「考える種」であり「大切な人との繋がりをつくってくれるもの」であるという納得できる答えを得た。
私はどもりと共に生きてきた。どもりに悩み、苦しんだ時期は長い。どもりで悩んでいたから私は自分と向き合い、生き方を真面目に考えることができた。人としてどう生きるかという学びのおもしろさを知った。そして、どもりで悩んでいたからこそ出会えた人は多い。どもりが信頼できる人たちと引き合わせてくれた。今、私には会いたいと思える人がたくさんいる。彼らに会うという楽しみと学ぶ楽しさが還暦を過ぎた私の暮らしを豊かにしてくれている。
近年、多様性を尊重する社会に向けての議論や取り組みがなされるようになった。私も、異質な他者を排除せず、互いの違いを認め共に生きるという前提が社会の新しい常識となることを強く願う。この社会の実現は、私たち一人ひとりの考え方と行動に委ねられている。そのために私たちができることは、他者との違いを認め、自らを否定することなく、対等に、そして当たり前に存在することであると考える。先輩たちから受け継いだどもる人としてただ普通に生きる姿がこの未来を創る力になると私は信じている。
【作者感想】
優秀賞をいただき、ありがとうございます。
この文章は、久しぶりに新・吃音ショートコースに参加して、若い人たちにはどもりに支配されない生き方をしてほしい、と願って書いたものです。今読み返すと、思いを伝えるというよりも年長者であるという高みに立ち、居丈高に自分の気持ちを押し付けていることが鼻につきます。受賞作として発表されると「何を偉そうに!」という声が聞こえてきそうで、本当に恥ずかしい限りです。
どもりのことを書くと、どうしても気負ってしまうのは、まだ私の中で怨念が昇華されていないからなのでしょう。私はどもりの正体を自分なりに明らかにすることで、この遺恨を晴らそうとしているのかもしれません。これからは、もっと肩の力を抜いてどもりの物語を綴ることができるようになりたいなあ。
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2024年度 優秀賞
老いを教わる
東野 晃之(ひがしの てるゆき)
「今日は、何曜日?」
「今日は、火曜日」
母親との日常のやりとりは、交流分析の相補交流のように繰り返される。母親が曜日を気にするのは、デイサービスと通所リハビリに週3回行っているからだ。2年ほど前に認知症と診断され、それをきっかけに通うようになった。物忘れが少しずつ進み、同じことを何度も尋ねるが、それらは不特定の内容でなく、本人が気になることや必要を感じるものが多い。そのほかに血圧の測定や数値、服薬などの確認がある。母親が認知症の診断を受けた時、認知症の知識を得るため情報を集めた。セカンドオピニオンを受け、医者から詳しく説明を聞き、認知症の本も読んだ。加齢によるもの忘れではなく、アルツハイマー型であること。記憶を司る脳の海馬が委縮し、記憶障害が起きること。昔の記憶は覚えていても最近のことは忘れるなどを知った。
家事を担う、同居の妹との会話は、しばしば交叉する。
「今日は、何曜日?」
「何べん、同じことを聞くの。さっき言うたでしょ。今日は、火曜日!」
母親のもの忘れを非難し、否定的で感情的なメッセージが返される。それを聞くと、いたたまれない気持ちになって妹にことばをかける。「怒るようなことではない。うっかり忘れているわけではなく、病気が忘れさせているのだから、何べんでも応えてあげてほしい」「怒られると自尊心が傷つき、自信をなくして病気が余計進むのでやめてほしい」と、できるだけ冷静な気持ちを保ちながら話す。妹も頭ではわかっているが、つい感情的になってしまうようで同じようなやりとりが繰り返される。
少しばかり認知症の知識があるものの私は、妹のように怒れない。病気や障害のためにできない、やれないことを非難や批判はできない。「それって、どもる人にどもらずにしゃべりなさい。どもる声を聞くと腹が立つのでやめてと言われているのと、同じやん」、「もっと優しくなってほしい」と内心思う。だが一方で、妹は物忘れが進み、頼りなくなった母親を認め、受け入れることができないのではないか。だからつい感情的になってしまうのではと想像する。私自身も、母親がついさっき言ったことをすっかり忘れている状態をはじめて目の当りにしたとき、戸惑い、動揺し、認知症の不安に襲われたことがある。そんなとき、自らも認知症になった専門医の長谷川和夫さんのことばに助けられた。「認知症になったからといって、人が急に変わるわけではない。自分が住んでいる世界は昔もいまも連続しているし、昨日から今日へと自分自身は続いている」。母親自身は何も変わっていない。認知症になったからといって周囲が勝手に昨日までと全く違う人のように見てはいけないことに気づき、気持ちが軽くなった。
母親は、明るく、社交的でしっかりした人だった。私が中学生ぐらいまで自宅兼店舗で日用品や菓子、パンなどを販売していた。家事、子育てをしながら店を一人で切り盛りした。店は府営住宅の前で繁盛した。近所の人は、買い物のついでに雑談をしていった。こづかいで駄菓子を買う子どもたちのたまり場にもなった。ときどき店番を任されたが、そんなとき同級生が店に買いに来るのが恥ずかしく嫌だった。
私が高校2年生の時、父親が亡くなった。2年余りの入院生活に母親が付き添い、死後は私、弟、妹の3人の子どもを働きながら育ててくれた。
私は中学1年生の春からどもり出した。中学、高校と吃音で困りながらもどもることばを言い換え、吃音を隠し、やり過ごしたが、高校3年生になって将来の進路を決めるとき、吃音と向き合うことになった。工業高校で母子家庭だったので、母親を助けるため就職したかったが、どもる自分が会社員になって働く自信が全くなかった。そんなとき新聞で大阪吃音教室を知って参加した。当時、吃音を治すことを目標に掲げており、半年間、必死に吃音を治す訓練をしたが効果はなかった。母親の勧めで結局、私は大学に進学した。せっかく入学した大学だったが、大学になじめず2年留年し、6年かけて卒業したが、そのときも母親は何も言わず、大学生活を続けさせてくれた。私は大学よりも再び参加した大吃音教室での活動が楽しく、夢中になって参加した。時間を忘れて夜遅くまで事務所で機関紙を作り、どもる仲間と語り合った。例会やレクを担当し、文化祭を企画して実行委員長となって開催した。担当や責任を引き受け、行動することで自分への自信となった。この6年間のおかげで、私は吃音とともに生き、吃音と上手につき合う道を進むことができた。その後も人生の岐路にたったとき、母親は私に寄り添い、手を差し伸べてくれた。母親は、いつも惜しみなく私に愛情を注いでくれたのだ。
私は3年前に定年退職になり、その後は家事を手伝い、母親の介護をしながら暮らしている。私が吃音に悩み、その吃音を認め、つき合ってきた経験が、今、母親の介護に活かされていると感じることが多い。吃音の治療法は今も確立されておらず、認知症も進行を遅らす薬はあっても治療法は確立されていない。治らないものやできないこと、自分の弱さなどを認め、受け入れられるのは、吃音のおかげである。
昨年末、母親は90歳になった。年々足腰が衰え、認知症が進んでいるが、母親はその姿を通して、老いとは何かを介護する私たち家族に教えてくれているようだ。体の機能が衰え、体力が弱くなっても、そんな自分を受け入れ、今持っている力で順応し、日々朗らかに暮らす姿を見ると、老いも悪くないと思え、老いに向かう自分が励まされる。人は老いると子どもに返るというが、老いた母親が愛しい。
「今日は、何曜日?」
「今日は、火曜日」
【作者感想】
これまでは過去の吃音のエピソードなどを題材にしていたが、今回は、日常での母親の介護などで考えたことを書いてみた。子どもの頃からの母親との思い出をたどると、自分がいかに愛され育ったかをあらためて知った。進路に迷ったときや吃音で悩み社会に出られないときなど、人生の岐路に立ったときも母親は私に寄添い、手を差し伸べてくれた。
普段あまり人に話さない留年を繰り返した大学時代のことも書いた。父親が亡くなり、母子家庭でありながら大学に進学させてもらったにもかかわらず、留年し卒業に6年かかった体験は、苦く恥ずかしい過去としてあまり振り返りたくなかった。だがこの6年間は、吃音と向き合い、新たに歩み出すために必要だったことや、この期間を与えてくれた母親の愛情を確かめることができた。ことば文学賞への応募で過去の体験を文章にし、自分にとってどういう意味を持つ経験だったのかを考えた。今回、幸運にも入選作品に選んでいただき、さらに嬉しく感謝したい。
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2024年度 審査員特別賞
どもりでおしゃべり
五島 康雄(ごとう やすお)
小学校時代、物静かでおとなしかった私のことを父が、「引っ込み思案で困るわ」と正月、祖父宅に集まっていた親戚達に言っているのが聞こえた。
どんな流れでそんな話題になったのか知らないが、祖父の孫達がたくさん来ていたから、その子らの自慢話や謙遜話などがあったのだろう。
確かにわたしは目上の人に対して、はっきりと物が言える子どもではなかった。でも時代的に、ほとんどの子はそんなものだったと思う、そして、まだどもりとは縁がなかった。
中学生になって、はっきり「どもった」という記憶がある。先生から指名され、国語の読本だったか、指定された箇所の冒頭の文字が言えないのである。起立しながら気持ちは焦っていたが、先生に「この文の最初の言葉が発音しにくくて、声がでません」と、わりと冷静な口ぶりで先生に言うことができた。先生がどう対処してくれたか覚えていないが、冷静だったとは言いながらもショックな出来事だった。
ほとんど支障のないくらいの「どもり」だったのだろう、授業で立ち往生した記憶は、この他にはない。クラスの学級委員を歴任し、部活動でもバレーボール部のキャプテンを任せられて、楽しく中学生活を謳歌していたが、まだまだ「おしゃべり」ではなかったと思っている。
あるとき、後輩の女子生徒から、生徒会長に立候補するので応援演説をして欲しいと、頼まれた。「えっ、どもりのわたしに頼むのか」と、たじろいだ。塾をやっている叔父に話すと、「後輩に頼まれたら、やらなあかん」と言い切られ、引き受けた。
全校生徒が千人以上おり、一度に講堂に入り切れないので、講堂での応援演説は二回に分けて行われたのだが、演壇上ではずっと脚が震えていた。
拙い応援演説だったが、他の人の演説とは違い、おふざけは一切ない真面目一本の演説がよかったのか、結果は当選で、彼女は役員になれた。どもる私でも、緊張していても、演説ができるのだという自信を得た出来事となった。
高校時代にどもりの面白いエピソードがあった。中学時代は優等生の成績だったが、高校では授業についていけずまったくの劣等生になっていた。その劣等感のせいだと思うが、授業で指名されての発表でどもり、声が出ないことが増えてきた。とくに英語のリーディングが最悪だった。輪読の場合、自分の順番で発声する最初の単語は予測がつく。そのとき、「A(ア)」で始まろうものなら、最悪である。
ある日、この「A(ア)」で始まる順番に当たると判った時、声が出ないのは分かっているので、たまたま隣の席に座っている親友に「悪いけど、わたしが立ったら、この『A』だけを、代わりに発音してくれ!」と頼んだ。そしてその親友も大したもので、ちゃんと「A」だけを代わりに発音してくれ、その場を無事に切り抜けられた。でも周囲には先生も含めバレバレだったはずだ。いま思えばよくもこんな大胆なことが出来たと思うのだが、この場面を切り抜けることだけしか頭になく必死だったのだろう。
社会人となっても、油断すればどもるという意識が常に頭にあったから、話さなければならない場所(会議・発表会など)に行くたびに緊張感があった。しかし、どもりでもなんとかなると、少ない経験での学びと、多分持ち前の楽観性で人生を切り抜け、悲観的なもの思いに沈むことなく、生きてきた。
「どもり」の転機は、やはり大阪吃音教室との出会いがすべてだと、言い切れる。2017年4月に出会い、集中して教室に通うなか、数年を経ると今まで「どもる」という言葉自体も嫌だったのに、口にするのが平気な自分に変わっている。どのような作用を受けたのか分からないが、「集中して通う」ということが、一つの大事なことだったと思っている。例会で発言するうちに、どんどん解放されていく自分になれたと感じた。
いまでは、解放され過ぎて、すっかりおしゃべりオジサンになってしまい、マクドナルドで、隣席の見知らぬ方の小耳にはさんだ会話にまで口出しする始末である。
ある日、隣席に座っていた女子高校生らしき二人組が、お正月に京都へ初詣に行った話をしだして、「神社そばの、えんやま公園っていいね」とか言い出した。何回も「えんやま」を繰り返すのだが、聞きなれない名称なので違和感があった。そこで、その子たちに「それって、たぶん『まるやま』公園ですよ」って教えてあげた。二人はわたしに不審そうな顔はしなかったので、素直に聞き入れたんだと思う。
また別の日、今度は男子高校生らしき三人組のときだ。試験勉強の予習で盛り上がっており、一人が「カエルって、種類はなんだ?」「爬虫類かな? なんだった?」と、あれこれ言い出しているのが聞こえた。すかさず、わたしは「それは、両生類だよ」と教えてあげた。これも反撥されることなく、素直に聞き入れてくれた。まったくの親切心であり、余計なお世話だとは思ってもいない。
例会でそのことを話すと、非常識極まりないとブーイングの嵐だった。相手によっては身の危険もあるから、すぐ止めなさい、とまで言われる始末だ。
「そうか、私はおしゃべりなんだ」という自覚をやっと持つようになった。なんとか変わろう、落ち着いた人生にと思い、例会では、人の話をきちんと聴くということを心がけて臨むようになった。ただ、マクドのスタッフになら、話しかけてもいいかと思い、カウンターで注文するとき、先客の注文について「あれだけ色々注文するなら、財布など先に用意していればいいのにね!」などと、余計なこと? を話している。スタッフは何と返したらいいのか、困ったような表情をしている。(ひと言、多い客だな。)
このように自分の言いたいことを話したい気持ちが旺盛で、相手のことを考えない、聴いていない、単なるおしゃべりな奴かも知れないと、つよく思ったきっかけがある。
それは次のような、思い出すのも恥ずかしいことだ。
ある日の例会でMさんが、
「先日、息子の結婚式で新郎の父としてスピーチをしたんだ。息子からは、いい出来だったと喜んでもらえたわ」
およそこのような内容だった。
その話が終わるや否や、わたしは「自分にも息子がおり、息子は結婚の意思がないから、そんなスピーチをする心配をしなくていいわ」と、言い放ったのだ。
なんら悪気のないつもりの発言だったのだが、Mさんは例会終了後、
「あなたがすぐ発言したので、わたしに対して『よくスピーチが言えたね』と褒めてくれるのかと思ったら、直ぐに自分の話をされました、ガッカリや」と嘆かれた。
「ガァーン」と頭を殴られたようで、恥ずかしい気持になった。そう、まったく人の気持ちを察していない「おしゃべり」なだけの嫌な奴に、私はなっていた・・・
この大反省の気持ちを忘れず、「おしゃべり」だとしても、本当に人の話しを聴ける、話し手に寄りそえる人の生き方をしていきたい。
Mさん、申し訳ありませんでした、ごめん!
【作者感想】
審査員特別賞、本当にうれしい。実は創作での受賞は初めてだ。会社員のころ、年度末に次年度の全社スローガンなるものの募集があったが、何十年も応募していて、一回も採用はされたことがなかった。わたしの書く文章といえば、業務連絡書・報告者など、いわゆるレポートばかりを書いていた。これは、それなりに評価されていたようで、上司からも褒められたことがある。
「ことば文学賞」は、ノンフィクションで、多くの方に作者の思いを届けるという創作物である。この類は苦手で下手くそだ。この年、初回の提出版はまさにそんなダメ版だった。それが今回、書き直しのチャンスを頂き、少しは認めていただける創作物になれた。
レポートではないよと己に言い聞かせ、その会話の情景が浮かぶようにし、また自分の至らない気持ちを正直に出すことにした。小学校時代から社会人までの長ったらしいストーリーが続くので、冗長にならぬよう、学生時代、社会人時代はほぼ割愛した。次回からは、一点もののエピソード(点描)で応募・挑戦したい。
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2024年度 審査員特別賞
み ず ど り
椿谷 昌史(つばきたに まさふみ)
2024年最終週の朝礼、ラジオ体操の動きもぎこちなく、心ここにあらずだった。
この後、連絡事項が終わった後に結婚のお祝いを頂く流れになっている。
一週間前に総務の子から「来週の水曜日の朝は会社に居てますか?」とメッセージが来た。
ピンときた僕は「居てますよ。お祝いをもらった後の一言、何とかならないですか?」と聞いてみた。
二週間ほど前に会社に結婚報告の書類を提出してから、朝礼で一言を言う流れになるんだろうなと気が重かった。
「嫌ですか?」「出来れば避けたいです」と少しだけごねた後に「仕方ないですね」と送った。
「おめでたいことなので」と返ってきた。
「おめでたいこと」と「一言」、天秤にかけてみたが、憂鬱の圧勝だった。
そもそもうちの会社は結婚のお祝いにも差があり、再婚は額が下がり三千円になる。
初婚の一万円なら文句も言わずに頑張れただろう。
どちらかと言うと三千円払うので、何もしないのがよかった。
そっとしといてほしかった。
その日から本格的に一言の練習が始まった。状況から「お祝いを頂き、ありがとうございます」
やはり、この言葉から始まる文言しか思いつかない。
「お・い・わ・い」、苦手な「お」が出だしというのは僕には絶望的に言いにくい言葉だ。
出来れば違う言葉に言い換えたい。
「ご祝儀を頂き、ありがとうございます」
なんか違うな。
お祝いのおを抜いて「祝い」から言おうかと思ったが。うーん、これも違うな。
ここは腹を決めて、お祝いから言おうと決めた。すっと出るか、どもってしまうかは気にしても仕方ない。
そして当日の朝、会社に行くまでに最後の一言の練習をしようと、オープン前の商業施設の人気のない場所を見つけた。
声に出して言ってみた。ぎこちない感じはあったが、何とか最後まで言えた。
よし、手応えを感じた。この文言で決まりだ。あとは練習して少しでも慣れてくれれば、それでいい。そして何度か繰り返し練習した。
三度目ぐらいから言葉が出にくくなってきた。あれ、どうしたんだろ。
次第に酷く詰まりながら言葉一つを出すのが精一杯になった。
しまった。練習により意識しすぎてダメになってしまったパターンか?
練習せずに本番に臨めばよかった。未だにあれこれ考えて、無駄に動いて一喜一憂してしまうのは悪いところだ。
連絡事項も終わり、名前を呼ばれたので前に出て行った。この時には何も考える余裕もなく、頭の中は真っ白だった。自分の体ではないような感覚で歩いていた。
お祝いを受け取り、マイクを持って周りを見た。まだボーっとした感覚だったので、人目で緊張することはなかった。話し始めはつまってしまったが、頭を下げる動きでそのまま一気に「ありがとうございます」まで言えた。
無意識に随伴運動でカバーするところは、さすがに長いつきあいだ。
考えていた一言を何とか言い終えて席に戻った。
傍から見たら幸せいっぱいで楽しさしかないだろうと思われてるだろうな。一分もかからない一言に何週間も悩み、苦しんでいたなんて誰も分からないだろうな。
一見優雅に見えて水面下でもがいている水鳥みたいだなと自嘲的に笑った。
吃音に翻弄されている人生をよかったとは思わないが、大切な人が居て周りにも恵まれて、ささやかな楽しみを見つけながら毎日がおくれている。ありがたいことでこんな人生もありかなと思えた。これが僕なりの受け入れるということだと思った。
ゆっくり呼吸をして、気持ちを落ち着かせているところに総務の子が来た。
「印鑑お願いします」と差し出された紙を見て、お祝いを受け取った受領印を押す必要があることを思い出した。印鑑を押そうとした手が小刻みにプルプル震えていた。
まだまだ落ち着いていないなと苦笑いして印鑑を押そうとして、押す個所が2つあることに気づいた。2つ目には親睦会という文字が書いていた。
机の上を見ると大きなご祝儀袋の後ろに小さなご祝儀袋が目に入った。
裏の額面を見ると、なんと2万円!!
見た瞬間から思考が一気に働いた。親睦会からのお祝いの事は嫁には言ってない。
会社から三千円のお祝い金を頂けると伝えていた。
「このお金はそのままお小遣いに出来るんだぞ」と、結婚してからお小遣い制になった僕に悪魔がささやいた。
「いやいや、会社からのお祝いが少ない方が恥ずかしいぞ。働いている会社の価値を下げてはダメだ」と天使もささやく。
引っ越しして長くなった会社からの帰り道、悪魔と天使のささやきは何度も繰り返され、攻防は続いた。
【作者感想】
審査員特別賞ありがとうございます。昨年末の日常のほんの1シーンを文章にしました。話す事が苦にならない人にとっては、さらっと終わる事もどもる人には一大イベントになり、一喜一憂する。
飄々としている、苦労が全く感じられないと言われることの多い僕の中の葛藤を、自虐的に「みずどり」に例えてみました。
書きながら自分を客観的に見て感じたことは、思い通りにいかない吃音に悩み、もがいているどもる人の姿はとても愛すべき存在に映っていました。
どもっても話すことを諦めずに言葉や気持ちを発する。この積み重ねを知っているから感じる愛おしさかなと思いました。
若い時は嫌で嫌で仕方なかった吃音の苦労も、自分から話すことが出来て、笑い(苦笑い)に変えることができる。
僕の何気ない日常にほっこりして頂けると幸いです。
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