ことば文学賞 2021年度


最優秀賞 ゆきどけ 椿谷 昌史  
 

 『もしも、吃音じゃなかったら』 もう何十回、何百回考えただろうか。
 その先の世界を想像する…。こんな性格でこんな生活を送っているのかなぁ。仕事もこんな感じでこなしているだろう。会社での人間関係もこうなってるにちがいない。
 それと同時に「なぜ吃音になったんだろう」と考える。
 僕には一つの説がある。多分、これが分岐点になったんじゃないのかな? と思うことが。・・・

続きを読む・・・



優秀賞 5月に思うこと 田谷 栄子  
 

 今日は雲一つない空が広がり、窓から心地よい風も入ってくる。最近デスクワークが多くなり運動不足を感じている。絶好の散歩日和だと思い、風に誘われるように私は近くを散歩することにした。
 かつて家の前の歩道にはつつじの樹が並木のように車道に沿う形で植えられていた。5月になると鮮やかな緑色の葉が見えないくらい白やピンク色の花が咲き誇っていたが、・・・

続きを読む・・・



優秀賞 もっとどもればよかった 嶺本 憲吾  
 

 薄れていく記憶をたどる。夕方、洗濯物をたたむ母の横で、音読の宿題を律儀にこなす私。誰かの前で音読をして、教科書にサインをしてもらうという宿題だったが、そんなもの別にやったことにして自分でサインすればいいのだ。・・・当時10歳で母の前ではそんなにどもらなかった、どもっても音読なので間を取ったりしてごまかしていた記憶がある。・・・

続きを読む・・・



審査員特別賞 息子の結婚式のスピーチ 相埜 孝幸  
 

 「ここで新郎のお父様から、ご挨拶をいただきます。」
 私は用意していた挨拶の内容をもらさずに落ち着いて言おうとした。・・・挨拶を終えて式が終わり、ほっと安堵の気持ちになった。・・・

続きを読む・・・


2021年度 最優秀賞

ゆきどけ

椿谷 昌史(つばきたに まさふみ)

 『もしも、吃音じゃなかったら』 もう何十回、何百回考えただろうか。
 その先の世界を想像する…。
 こんな性格でこんな生活を送っているのかなぁ。仕事もこんな感じでこなしているだろう。会社での人間関係もこうなってるにちがいない。
 それと同時に「なぜ吃音になったんだろう」と考える。
 僕には一つの説がある。多分、これが分岐点になったんじゃないのかな? と思うことが。
 仮定になってしまうのは、僕は親と吃音の話をちゃんとした事がない。
 もちろん、「自分は吃音」という事実は伝えたことはある。
 だが、「ゆっくり話せば大丈夫」「気にしなくていいんちゃう」という反応に
 僕もそれ以上言う気にはなれなかった。
 やはり分かってもらえないなという諦めとあまり人に頼ることのない、内に籠ってしまう自分の性格からもう言わなくていいやと思った。

 そして僕が思う分岐点は左利きから右利きに直されたことがきっかけになったと思う。
 4つ下の弟が生まれた時に僕は親戚の家に預けられた。
 それまで左利きだった僕は、右利きになって帰ってきたらしい。
 4才の何も分からない子供が自然に左手を使おうとするのを無理やり右手を使わされる。
 そんなスパルタ教育が長い間続いた事が精神的ストレスになったのではないか。
 今でも記憶に残っているのは小学一年生の記憶。当時は右と左を教えるのを
 「お箸を持つ方が右」「字を書く方が右」とまだ右利きが当たり前の時代だった。
 生まれつきの左と矯正された右、どっちの手でもご飯が食べれて、字も書ける。
 どちらも違和感も不自由もなく出来るので、右と左が分からずにパニック気味になっていた苦い思い出がある。
 『スパルタで直された時の精神的苦痛で吃音になった』とずっと思ってきた。
 左利きのままだったら、どんな人生を歩んでいただろう。

 先日、実家でコーヒーを飲んでいたある休日。父が録画していた番組をつけた。
 『きよしこ』だった。見逃した僕はラッキーと思ったが、そこに母の声が。
 「お父さん、それはやめとこう。」
 「なんで?」と父。僕も不思議に思った。
 「昌史が気にする。」と僕を気遣った言葉だった。
 見たかった僕は「気にしないからいいよ。見たい。」と答えた。
 番組が始まると母は小さな声で「ごめんね。」と呟いた。
 そして「子供の頃に苦しんでいたのに何もしてあげれなかったから。」と。
 不思議な感覚に襲われた。雪解けのように心の奥で何かがすっと溶けるような感じ。
 謝ってもらったことが嬉しかったわけではない。親に対して何かわだかまりがあったわけでもない。でも言ってもらったことで何かが変わったことは、はっきりと分かった。
 うまく言えないが、吃音に対してふれあえた嬉しさなのかもしれない。
 ずっと一人で乗り越えてきたとばかり思ってきたから。
 自分の話し方が恥ずかしい事だと思い込み、自分をダメな人間だと思い続けた事も。
 仕事の電話が上手く出来ずに夜な夜な104の電話番号案内で練習した日々も。
 連発から難発に変わり、言葉の出ない怖さから人と接する事を遠ざけていた時期も。
 でも、親も同じ期間ずっと気にしていたことを初めて知らされた。
 吃音の状態も一人一人違うように、家族の捉え方や接し方もそれぞれ違うと思う。
 もちろん何が正解で何が間違っているかなんて分からない。
 そして僕のように悩んでいる時は分からなくても、後々に知ることもある。
 もっと自分から吃音の事、自分の事を話してきたらよかった。言葉がつまる苦しさを何とかしたい一心で答えばかりを求めていた。自分の求める反応でなかったら『分かっていない』と一方的に決めて心の扉を閉めていた。
 「今日、すごいどもってしまった。自分でもびっくりした!」
 「どもっても聞いてくれる人がいた。うれしかった。」
 「最近、調子がよくてあまりどもらない。今、無敵な気がする。」
 「明日の発表、ちゃんと話せるか心配やわ。終わったら自分にご褒美何にしようかな?」
 こんな他愛のない愚痴やひとり言が言えてたら、気軽にふれあえたのに。
 そんな積み重ねが、僕の求める答えにつながってたかもしれないのに。
 不器用なこじらせ方が僕らしいなと苦笑いするしかなかった。

 そしてこの機会に僕は自分の仮説をぶつけてみた。右利きに直されたことが吃音になった原因ではないかと。
 「あの時は私もびっくりした。一ヶ月で帰ってきたら全部右手を使っていたから。」
 えっっ! たった一ヶ月。
 そんな短い間に矯正されるなんてスパルタすぎる。
 今更ながら幼い自分が受けた仕打ちに同情し、素直で従順なかわいい子供だったのだろうと思っていると。
 「あれも酷かった。預けてた時にスイミングに行かされて、そこで溺れたこと。」
 ええっっ!! 初めて聞く新事実に驚愕した。
 聞くと向こうの子供と一緒にスイミングスクールに行ったが、泳げない僕を誰も見ていなかったらしく溺れてプールの底に沈んでいたところを助けられたという事だった。
 「助かったから良かったものの、死んでたかもしれなかった。」と母は思い出して怒っていたが、「でも、溺れたあなたが誰よりも泳げるようになった。」と不思議がってもいた。
 確かに僕は小学生の時、学校対抗の水泳大会の選手に選ばれていた。
 溺れたショックで泳げないとか、水が怖いとはならずに溺れたことも忘れてスイスイ泳いでいたのだろう。
 ここでふと疑問がわく。スパルタで右利きに直された辛さもすぐに忘れたのでは?
 まさか左利きだった事も忘れて、生まれつき右利きだったかのように家に帰って過ごしていたのではないか?
 悲劇の主人公だと思いこんでいたこの仮説が、自分の中でゆっくりと溶けていった。
 そして空想の世界と一緒に左利きの僕もすっと消えた。そこには右利きのいつもの僕が立っていた。
 ありのままの自分を受け入れる事が出来たということなのだろうか。

【選者講評】
 「ゆきどけ」というタイトルにまず惹かれる。偶然、家族の中で「吃音」が話題になったとき、母がぽつりとつぶやいた「ごめんね」のことば。そこから、一気に作者の幼い頃に場面が遡る。話しても分かってくれないと思い、吃音の悩みや苦しみを口にしてこなかった作者。口にこそ出さないが、自責の念を感じていた親。今まで話せなかった話題がなぜか自然にできたことで、長年、それぞれに感じていた吃音に対する思いがすうっと溶けていく様子が綴られている。作者は、謝ってもらったことが嬉しかったわけでもないし、親に対して何かわだかまりがあったわけでもないと言う。でもその一言で何かが変わったのだろう。一人で抱えてきたと思っていたものが、実はそうではなかったと知った小さな喜びは、それまでの堅く冷たいものを溶かし、軽くしてくれた。「ゆきどけ」というタイトルが読む者の心に染みてくる。

【作者感想】
 「ことば文学賞」最優秀賞ありがとうございます。
 今年は書くエピソードがないなとぼんやり思っていた締め切り間近の休日の出来事でした。親と吃音の話をしたことがなかったのに、『家族』というテーマとこのタイミング。ぽつりと呟くように言ってくれた言葉が心の中にしみていきました。想ってくれていた事はどんな形でも最終的に伝わるのだなと。それだけで十分だと感じました。
 そして最優秀賞の賞品が届いた時、ちょうど吃音の次男と食事中でした。賞品に興味津々な次男とも少大阪し吃音教室の話をしました。思春期で会話も少ない中での貴重な時間でした。親とも子供とも吃音について話す機会になり、ただの偶然とは思えませんでした。
 長い間信じてきた仮説は崩れ、空想していた『左ききの僕』も感じなくなりました。もう役目を終えたかのように...。

2021年度受賞全作品ページ

このページの先頭に戻る


2021年度 優秀賞

5月に思うこと

田谷 栄子(たや えいこ)

 今日は雲一つない空が広がり、窓から心地よい風も入ってくる。最近デスクワークが多くなり運動不足を感じている。絶好の散歩日和だと思い、風に誘われるように私は近くを散歩することにした。
 かつて家の前の歩道にはつつじの樹が並木のように車道に沿う形で植えられていた。5月になると鮮やかな緑色の葉が見えないくらい白やピンク色の花が咲き誇っていたが、十数年前に伐採され今はコンクリートに覆われている。歩道は広くなったが、灰色一色となった道は何だか味気ない。そういえば中学生になりたての頃、美術の時間に風景を描く授業があった。他の生徒は学校内のモミの木や欅の木を描いている中、私はつつじが咲いている歩道の風景を描いていた。自分でもなぜそれを描こうと思ったのかわからない。絵も色遣いも他の生徒と比べて上手くはないので、描いた絵はそのまま美術室の倉庫にでも入るんだろうなと思っていたが、1年後返却された絵には周囲に額縁のような厚紙が貼られ、先生によって題名までつけられていた。どうやら何かの展覧会に出品されていたようで、自分でも価値が見いだせない絵が出品されていたことに驚いた記憶がある。
 そんなことを思い出しながら歩道を歩いていると、交差点にさしかかった。左に曲がれば小学生がいつも通っている通学路だが、まっすぐ視線を向けると伐採されず残っているつつじの樹と花が見えた。美しく咲いているつつじを見ようと、私はまっすぐ進むことにした。それと同時に小学生だった時の苦い記憶が呼び起こされる。小学生だった私は車からつつじの花々美しく咲いているのを見て、「つつじがきれいやね」と車を運転している母に言いたかったが、何度もどもって「つつじ」の「つ」が言えなかった。母は「急にどうしたん? 何言ってるかわからんわ」と言い、私は何も言えなくなった。車を降りてから、つつじの美しさを母と共有したかっただけなのにと気持ちが落ち込んだ。それ以降は伝わらないもどかしさを自分が感じないよう、家族に伝えたいことがあっても初めの言葉がどもるかどもらないかを基準に一呼吸おいてから話すようになった。そんなことを思い出すくらいなら味気ないと思った灰色一色の道が続くほうが、苦い記憶を思い出さずに済むのかもしれない。
 いつの間にか足元を見て歩いていたようで、顔を挙げるとつつじの樹はなく歩道も狭くなっていた。この辺りの風景は小学生だった頃からほとんど変わっていない。懐かしい反面、あの時「つつじ」と言えていたら母は何と答えてくれただろうかと思いを馳せる。
 5月の日差しは柔らかいが、油断はできない。少し暑くなってきたので左に曲がり日陰になっている通りを歩く。そういえば1回だけ「ことばの教室に行かへん?」と母に聞かれたことがあった。その時ことばの教室という単語を初めて聞いたが、言葉のこと、つまりどもることを指しているということは何となくわかった。私は知らないところに行く不安と、どもることをこれ以上考えたくないと思い、母に「行かない」と言った。母も「行かんでもいいんと違う?」と言い、それ以上の会話はなかった。その頃から私は一言で言うとどもらないようにしていた。例えると、心の中にある鍵付きの大きな箱に吃音をしまい、どもらない自分が本当の自分だと思いこむようにしていた。しかし時に吃音は箱をガタガタと鳴らし鍵を開けて外に出ようとしていたので、全身を使い箱に覆い被さり箱が開くのを必死に抑えている、そんな感じだ。そのおかげで家や学校で派手にどもることは少なくなっていたが、吃音がなくなることはなかった。数年後、自身の吃音と向き合い始めた頃に敢えて家でどもりながら話していた期間があった。私は母に「私ってどもってる?」と正解ありきの質問をしたのだが、返ってきたのは「あんたはどもってないで」という予想していない言葉だった。私が明らかに連発でどもっているのにどもっていないと思う母の基準は何なんだろうと想像していると、頬が緩み口角が自然と優しく上がる。美術の先生も私の母も、私自身とは違う視線と角度で見てくれていたのではないか。自分では大したことのないものでも、他人からすればその人しか持っていない良さがあるのかもしれないし、自分自身が気にしているものは、案外周囲は気にしていないかもしれない。そんなことを思っていると道も開け、小学校が見えてきた。
 小学校は通学していた当時のままと変わらない外観だ。変わらないのは前庭(まえにわ)と呼んでいた花壇も同じで、つつじの花の色はあの時と変わらず、そして「ずっとここにいる」と言わんばかりに前を向いて咲いている。苦い記憶から、道は灰色一色のほうがいいと思いかけたが、やっぱり味気ないなと葉の間を縫うように咲いているつつじを見て思う。想像は現実にないものを補ってくれる。これから歩くコンクリートの道には、さっきまで見えなかった色が見えるような気がした。

【選者講評】
 一枚の絵を思い出させるような、きれいな作品だ。道を曲がって歩くたびに時間が経過し、思い出されることも本人の気持ちも変わる。「ことば文学賞」は、吃音が大きなテーマだが、この作品は、吃音にまつわる人生のひとこまを描き、文学的な美しさがある。
 自分では大したことのないものでも、他人からすればその人しかない良さがあり、自分自身が気にしていることも、周囲は気にしていないかもしれない。作者が気づいたこの真理は、吃音の捉え方と結びついている。どもる自分は気になるが、周囲はどもることなど気にもとめていないことが多い。その吃音を、心の中にある鍵付きの大きな箱に入れるが、時に、吃音は箱をガタガタと鳴らし、外に出ようとする。ここにいるよと叫んでいるように。それを全身を使って箱に覆い被さり、箱が開くのを必死に抑えている。この、どもらないようにしていた表現がおもしろい。

【作者感想】
 毎年つつじが咲く時期になると鮮やかできれいだなと思う反面、どこか引っかかる思いがありました。そして、年月が経つにつれて作品中の体験は私が創り出した幻だったのではないかと思うようになってきました。実際に幻だとするとその後の記憶の辻褄が合わないのですが、そのような不思議な感覚を文章に残しておきたいと思い、小説の物語のようなイメージで書いたのが今回の作品です。自分自身の備忘録になればと思い書いた作品だったので、受賞の知らせが届いた時は驚きました。
 私は今回の受賞発表の場にいなかったため、後日受賞の知らせとともに参加されていた方々の感想を拝見しました。一つひとつの感想には新たな発見もあり、読まれた方から反応があるという嬉しさを改めて感じました。来年のつつじの花は今までとは違う思いで見られるような気がします。改めて、賞を頂きありがとうございます。

このページの先頭に戻る


2021年度 優秀賞

もっとどもればよかった

嶺本 憲吾(みねもと けんご)

 薄れていく記憶をたどる。夕方、洗濯物をたたむ母の横で、音読の宿題を律儀にこなす私。誰かの前で音読をして、教科書にサインをしてもらうという宿題だったが、そんなもの別にやったことにして自分でサインすればいいのだ。真面目な少年だった私はとにかく律儀に言われたことをする、しなければいけないという固定観念の塊だった。当時10歳で母の前ではそんなにどもらなかった、どもっても音読なので間を取ったりしてごまかしていた記憶がある。音読が嫌だという気持ちはあったが、音読が好きという気持ちもあった。洗濯物をたたみながら、私の声に耳を傾けてくれた母の顔はどんなだっただろう。たたまれた洗濯物、風でカーテンが揺れ、部屋に残る私の声。私の記憶をたどる。そうだ、あの頃は音読だって好きだった。音読が上手だと先生に褒められたこともあった。台詞に感情をこめて音読していた。どうして忘れていたのだろう。いつもただどもりでつらかったということしかでてこなかった。忘れたふりをしていた。人は忘れるが、忘れたふりもする。

 父はよく釣りに連れて行ってくれた。私はどもりになる前から人見知りが激しく無口な少年だったが、どもりになって余計無口になった。でも無口な人間が益々無口になったからって、誰も気にもとめないし気がつかない。だが父は気づいていたのかもしれない。ゲームが好きで、一人でロールプレイングゲームばかりしていたから、外に連れ出そうとしていたのかもしれない。始発の電車に乗り、大阪港で海釣りをした。まだ薄暗い朝のガラガラの電車に小学生の私はウキウキしたものだ。他の兄弟はあまり行こうとしなかったので、一緒に行くと秘密でこづかいをくれた。クーラーボックスに釣れた魚を入れて持って帰ると、母が魚をさばくのは大変なんだから、と愚痴を言った。そんな朝はどもりのことは忘れていた。

 祖母は5人兄弟の真ん中の私を特別かわいがってくれた。私も祖母が大好きだった。一人で電車に乗り、祖母の家まで会いに行った。昼はいつも近くの中華屋さんからラーメンを出前で取ってくれて、おいしそうに食べる私を見ていた。出前で食べるラーメンが特別な日常を感じさせて、何を話していたのかは忘れたが安心だった。どもりのことは頭から離れていた。

 母は昔勤めていた病院の先生に相談し、診察に連れて行ってくれた。頭に電極をつけ、遊んでいるとき、音読しているときなどいろんなことをして、そのときの電気信号を先生は調べていたようだった。結局わからない、精神的なことだということで一旦は病院に行くのをやめた。どもっても大丈夫、そんなにどもってない、と言い続けてくれていたが、私はどもりを理解してくれていないと捉えていた。母も私も吃音をどう取り扱ったらいいのかわからなかったんだと思う。母は5人の子供のために料理洗濯などの家事に追われていて日常を支えることで精一杯だった。だからといって放っておいたわけではなく懇談や面談などで先生と話し合い、私にどうするのか問い続けていた。私はただつらいと言うだけで、どもりは一人で抱え込むしかないと思っていた。

 どもりのことを家族に話したことは数えるくらいだろう。どもらないのにどもりを理解してほしいという要求は、まるで川の対岸で小さな声で話すようなものだ。それなのにどもりをわかってくれないという不満だけがたまっていた。
 不満は逃げる口実となり、私は「どもりだから」と諦めることに慣れていった。

 そんな私でも一念発起することもある。祖母が好きだった私は介護の世界に行きたいと両親を説得し夜間の専門学校に通うことにした。介護の世界は優しい人ばかりでどもりでも大丈夫というあざとい気持ちもあった。でも2年目の実習のときに施設担当者とうまくいかず、レポートの作成に頭を抱えて、私は逃げ出した。もう何もかもが嫌だった。
 とにかく遠くへという気持ちで新幹線に乗り九州に行った。死ぬつもりだったが、結局九州を一周して大阪に帰ってきた。ただの九州旅行になった。
 帰ってきて、専門学校の先生と母と面談し、私はそれでも「どもりでつらい。死にたい」と言い放った。家に帰って私の部屋の前で、「二度と死ぬなんて言わんといて!! これだけは約束して!!」と母は涙を流しながら強く言った。

 妻は絵本を読む私の声がしなくなると、「どもってるん?」と聞いてくる。作者のあとがきを黙読していただけなのに、そんなことを言ってくる。どもりだという私のどもる姿を探している。実は絵本を読んでいるときに少しどもった箇所があるのに、それが妻にはわからない。今どもっていたんだよ、喉元まででた言葉を飲み込んだ。「家族にもわからないどもりか……」しばらく私は考える。よき答えを見つけるために。

【選者講評】
 カーテンを揺らす風、たたまれた洗濯物の匂い、そこで母に聞いてもらうため音読する作者の声、遠い昔の記憶がよみがえり、その情景が浮かんでくる、きれいな書き出しだ。
 悩みのまっただ中にいるとき、人は、吃音について考えたり、ことばにしたりすることは難しい。一人で考えて、誰も自分の吃音を分かってくれないと思ってしまう。実際は、そうではなくて、家族は、それぞれに作者の吃音について考えてくれているのだということに、この作品を通して気づく。時間が経ち、吃音のことを客観的に考えられるようになってから、家族のことを振り返ったときに、自分との関係性が変わってくるのかも知れない。考察や意味づけができるのは、時間を置いてからになるのだろう。
 母が、父が、祖母が、妻がとの書き出しで始まるひとつの塊が、短編小説のような趣があり、それがひとつの家族へとつながっていく。それぞれの家族の前でもっとどもっていれば、様子は違っていたのだろうか。悩みを直接ぶつけていれば、家族との関係は変わっていたのだろうか。その答えは、作者のこれから、新しい家族の関係の中で見えてくるのかもしれない。

【作者感想】
 「吃音と家族」というテーマで何を書こうかと考えていたとき、どもりのことを家族とほとんど話していないことに気がつきました。どもりを理解してくれなかった。一人で悩んでいた、家族との関わりでそんな思いばかりが湧いてくるのです。でもそんなことばかりが全面に出てくるのはおかしいと思いました。家族との思い出がもったいないと思ったのです。だからちょっとした出来事を一生懸命思い出して文字にしました。
 「どもりで悩んでいた」という一括りにしてしまっていた思い出を、解きほぐしてくれたのは家族との穏やかな時間でした。
 もう少し掘り下げないとだめかなと思いつつ、たくさんのエピソードを入れたいというのもあり、そのまま応募しました。でも結果的に優秀賞をいただき、とても嬉しいです。ありがとうございました。

このページの先頭に戻る


2021年度 審査員特別賞

息子の結婚式のスピーチ

相埜 孝幸(あいの たかゆき)

 「ここで新郎のお父様から、ご挨拶をいただきます。」
 私は用意していた挨拶の内容をもらさずに落ち着いて言おうとした。
 「両家を代表して僭越ではございますが、お礼の言葉を申し上げます。私は新郎の裕樹の父親の相埜孝幸でございます。本日は裕樹、知里さんのために結婚式にご出席くださいまして誠にありがとうございます。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 今後とも、末永く二人にご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。本日はありがとうございました。」
 ほとんど、つまらずに落ち着いて言えた。自分にとっては一番の出来だった。挨拶を終えて式が終わり、ほっと安堵の気持ちになった。

 私はこれまで大勢の前での発表で苦い経験がある。堺市の教頭会の研修発表会でのことだ。私は堺区を代表して発表することになった。100名くらいの教頭の前での発表。10分くらいの発表だが、失敗は許されない。堺市の教頭仲間で何人か知り合いがいるが私の吃音について知っている人はいない。ここは無難に乗り越えなければと思った。
 私は発表1か月前から毎日、家で妻を相手に発表原稿を読む練習をした。言いにくいところはこんなふうに呼吸を整えて言おうとか、また時間内に言えるようにしようとか、いろいろと考えて準備をし本番に備えた。
 発表当日になった。堺区からの発表だ。私の区が一番目なので緊張が少なくていい。発表が始まった。全然、言葉がうまい具合に出てこない。家での練習のときと全然ようすが違う。こんなに言葉に詰まるのは珍しかった。ふーふー言いながら、どうにかこうにか後半の人にチェンジした。
 あれだけ練習したのに、本番は最悪の事態になってしまった。研修発表会が終わってからも私の心は沈んでいた。「相埜さん、ご苦労様でした。」同じ区の教頭先生から声をかけてもらっても、どう応えていいかわからなかった。その後もずっとうつむいていた。あ〜どうしてこうなったんだ。恥ずかしい思い、後悔の念で一杯になった。

 そんな予期不安にかられて大失敗した経験があるので、もうあんな思いはしたくないと思った。息子の結婚式の挨拶では、事前にあれこれと心配するのは止めておこうと思った。どうなるかわかれないが天に任せようと思った。そうすると、悩まないだけでも随分と精神衛生上、気持ちが楽になった。
 教頭会のときのように毎日、練習するようなことはしなかった。ただ、挨拶の言葉のスピーチメモを作って、言う内容項目を箇条書きにして頭に入れるようにした。結婚式の一週間くらい前にスピーチ内容を考えて、当日の朝に言う内容を復習したくらいだ。
 結果、本番では落ち着いた気分で力まずに言えた。大勢の前でしゃべるのにあんなに落ち着いて言えたのは初めてだった。ただ、一つ残念なことがあった。私はお酒が好きな方なのでいつもは気分よくお酒を楽しむのだが、アルコールが少々入ると舌の回りが悪くなることを経験してきているので、この日は最後の挨拶までお酒は少量にとどめた。
 これから、こういう大勢の前での発表、挨拶があっても前もって心配しないでおこうと思う。不安な気持ちを引きずるのはやめておこう。結婚式の挨拶のときはうまくいったが、これからの発表では言葉が詰まるか比較的すらすらとしゃべれるかはわからない。できたら詰まらないように言いたい。詰まったら嫌だし恥ずかしい思いはある。しかし、詰まったら詰まったで仕方がない。それを受け止めようと思う。どもることをずっと不安に感じて思い悩むのはとても疲れることだ。予期不安をずっと感じて自分を苦しめるのはやめようと思う。“まあ、なるようになるわ”というゆったりとした気持ちで臨んでいきたい。

 今回の結婚式のスピーチのことを通して息子と吃音について話をした。また、以前に息子が吃音について興味をもったことがあるというので、それを紹介する。
 息子は岩手のテレビ局にアナウンサーとして勤めている。その息子が以前、実家に帰って来たときに、「お父さん、僕、今、吃音の人のことについて取材してるねん。」と言ってきた。私は、吃音のことについて言いだすのでとてもびっくりした。聞くと、息子は吃音について、それまでは知らなくて、仕事上でどこかの局長さんが総会の挨拶のときにすごく言葉に詰まって出てこないということがあって、あれっと思い、そのことで吃音のことを知り興味を持ったという。それで、学校の先生をしている吃音の人を取材してドキュメント番組を作るのだそうだ。私は息子にそのドキュメント番組を通して何を伝えたいのかを聞いた。息子は「吃音の認知度の向上を図ること」と「吃音を持ちながらも教師として頑張っている人がいるということ」を伝えたかったという。
 息子が吃音について興味を持ち、吃音についてこのように考えているんだと知って、うれしく思った。ちなみに息子は私の吃音のことについては今まで気がつかなかったという。28年間も私の吃音のことを気づかなかったのが意外に思った。
 息子に質問をしてみた。
 「お父さんがもし、結婚式のスピーチで無茶苦茶どもっていたらどうだった?」
 「別にいいよ。何とも思わないよ。」という返事だった。
 また、息子は、
 「お父さんがしゃべっているときの間は、(本当は言葉が詰まって出て来ないのだが、)すごく考えながらしゃべっている、論理的に考えて言葉を選んでしゃべっているんだと思っていた。結婚式のときも結婚式にふさわしい表現を考えてしゃべっているんだろう。」と思っていたという。
 なんとも、こちらが悩んでいることとは全然違うことを息子は思っていた。自分事だけどすこしおかしかった。息子の結婚式のスピーチのことで、息子と吃音のことについて語れたことは、これからの私と息子の関係の中ですごくうれしいことである。

【選者講評】
 どもる人にとって、どもりたくない場面のひとつとして挙がるのが、結婚式での新郎の父親としての挨拶だ。面接も仕事上の電話も会議での発表も、なんとかこなしてきた。そして、最後に残るのが結婚式での挨拶ということなのだろう。
 作者は、以前、練習を重ねて、でも、当日うまくいかなかったという苦い経験がある。大阪吃音教室との出会いもあって、今度の結婚式では、何度も練習することはやめ、どもったらどもったときのことと、ある意味開き直って、当日を迎えた。どもったらやはり恥ずかしいという気持ちはあるが、それに大きく影響を受けていない。人が変わっていくということは、こういう道のりをいうのだろう。
 心温まるエピソードとして、心に残り、審査員特別賞に選んだ。

【作者感想】
 「家族と吃音」のテーマで書いた作文が審査員特別賞をいただき、うれしく思います。
 息子の結婚式のスピーチのことで、結婚式当日まで思い悩まずにこれたことが自分としてもとても気が楽に過ごせたので、その思いを書きました。とは言っても、大勢の人前でどもるのは嫌なことだし平常な気分ではいられないと思いますが、予期不安をもったまま、ずっと毎日過ごすのはもっとしんどいことです。どもるかどもらないかはそのときの結果に任せることにして、これからも発表などがあるときは自然な形で臨んでいきたいと思います。
 また、この度のことで息子と私の吃音のことについて話ができたことは思ってもみないことだったので、何か自分の気持ちの整理ができたみたいですっきりとした気分になりました。今後も息子と私の吃音のことについて話題にできそうなので、良かったです。これからは吃音について家族と共に自然なかたちで受けとめてやっていこうと思います。

このページの先頭に戻る


各年度最優秀賞受賞作品ページへ      2021年度「ことば文学賞」応募原稿・募集要項
トップページに