ことば文学賞


2013年度 最優秀賞

あるどもり人(びと)の告白

丹 佳子

 小さいころから本を読むのが好きだった。いろいろな種類の本を読むよりは、どちらかといえば、好きな本の好きな台詞や個所に線を引いて、何度も何度も繰返して読むのが好きだった。ひとりで好きな本の世界に没頭しているのは、至福の時間だった。
 中学のときに、遠藤周作の「白い人・黄色い人」を読んだ。人間の悪魔性と信仰を問う作品であるが、この中で重要な登場人物のひとりである醜い顔を持つ神学生のジャックは、斜視のせいで父親からも嘲られて育った主人公に言う。「醜いことは辛い(中略)だが十四歳のとき、僕は自分の顔立ちが十字架であることを知ったんだ。キリストが十字架を背負ったように、子供のぼくもそれを背負わねばならぬことを知ったんだ」
 また、主人公が「いくら十字架を背負ったって、人間は変わらないぜ。悪は変わらないよ」と言ったのに対して、ジャックは「しかし、ぼくのほかに、君も十字架を背負ってくれたら。せめて、君が、君の斜視の悲しみだけでも背負ってくれたら。そうした人が増えていったら」と答える。
 どもりで苦しんでいた私にこれらの言葉は衝撃だった。このとき思った。「そうか、どもりは私にとって背負うべき十字架なのだ」
 小さいころから人より少し勉強ができたせいで、うぬぼれていたところはあった。目立ちたがり屋で傲慢なところもあった。そういう私に罰をお与えになるために神様は、私をどもりにしたのだと思った。
 これを友達に話したら大爆笑された。私のどもりはいつもどもるのではなく、普段の会話はそんなにどもらないのだが、授業であてられたときなどに、突然言葉が発せなくなるタイプのどもりだったので、クラスの違う友達は私がどもりで悩んでいるというのを知らなかったせいもある。変な人と思われるのが嫌だったので、その後人に打ち明けることはなかったが、この考えは私の中で重要な地位を占めるようになった。
 神様の考え方自体は、悪くなかったと思う。「若草物語」や「小公女」の主人公たちが苦しいとき聖書を読んで、神様にお祈りしているシーンに西洋的な美しさを感じていた。また、小学校のとき皆が掃除を嫌がった場所を一人で掃除をしていたら、先生が「誰も見なくても神様が見ているからね。掃除して手も服も汚れちゃったけど、心はきれいになっているからね」と言われて嬉しくなった。運動部でもコーチが、礼儀を教えるためであるけれども「きちんと靴やスリッパを揃えていたら、試合の大事なときに神様が運をくれるよ」と言ったことに「なんていい考え方だろう」と感心したものだった。
 ただ、神様とキリストの違い、キリスト教における十字架の意味をよく知らないまま、神様や罰を勝手に解釈したのはまずかった。なぜなら、私の中で神様の暴走が始まったからだ。クラスでのいじめや高校受験などが重なったせいもあり、精神的にかなり不安定な時期だったこともあるが、どもるたびに私は自分を責めるようになった。今日はおごったところはなかったか、人をあざけったことはなかったか。もちろん発言として、そんなことはしていない。だが、一瞬でもそう思うことはなかったか、なぜなら、神様は心の中までお見通しなのだから。そこにおいては、思うこと自体が罪なのだ。そして、ちょっとでもそういうことがあれば、私は神様に赦しを乞うために祈るようになった。「神様、神様、お赦しください。○○さんのことをばかだと思ってしまいました。今日どもったのはその罰でしょうか」日々そんなふうにお祈りしていたと思う。これは少しずつ狂気を増していった。最初は自分のおごりを問うだけだったはずのものが、赦しを乞わなければどもりがもっとひどくなる、いやどもることよりももっとひどいことが自分だけじゃなく家族にも起こるんじゃないかという妄想も入ってきた。祈る姿勢も最初は椅子に座って心の中で思うだけだったが、正座して手を合わせて祈るようになった。祈る時間も長くなっていった。正座しているので足が痛くなることもあったが、それは修業だと思った。どもりが出なければ神様のおかげ、どもりが出ればお祈りが足りなかったため、そう思った。そんなことばかりしていたものだから、勉強には集中できず、結局高校の第一志望のところは落ち、家族も最近あの子は変だということに勘づき始めたところで、私は祈るのを辞めた。祈るのを辞めても、私は相変わらずどもるときはどもり、どもらないときはどもらなかった。祈るのを辞めたのが原因と思われる恐ろしいことも、おそらく起こらなかった。ただ、信仰と思っているものが狂気を帯びるようになることがあること、心に自由がなく素直に喜んだり怒ったりできないことは、非常に苦しいものであることを実感した。余談であるが、その後起こったオウム事件のとき、信者達が「修業するぞ! 修業するぞ!」とあやしいヨガの訓練を受けている様子がテレビで放送されたのを見て、あのときの自分に似ていると思ったものである。
 その後は、それまでのように祈ることはなくなったが、どもりは私にとって十字架であるという考え方は残った。どもっているときの自分に、いばらの冠をかぶり、十字架を背負って、鞭うたれ血を流しながら、裸足で岩場を歩くキリストにイメージを重ね合わせていた。また、どもりの意味を考えたとき、罰ではないにしろ、やはり傲慢にならないことへのストッパーの役割はあるのだろうと思うようにした。それは自分を卑下し続けることにつながり、私は何をしても自信が持てない人間になっていった。
 そういう感傷的な学生時代を過ぎ、なんとか社会人になった。技術系の仕事だったので、受付や営業のように常に電話対応をしなければならないわけではなかったが、みんなが出払っているときは電話に出なければならなかった。社名が言いづらいものだったので、電話では最初からどもって言葉が出てこないことも多々あった。「電話番もできないようじゃ困る」と上司に言われて、後から泣いたこともある。しかし、心の中でいくら傷ついていたとしても、問題なのは現実に電話対応ができるかどうかだ。十字架を肩に食いこませながら、私は必死でタイミングを計り、声をしぼり出した。そうこうするうちに、なんとか社名は言えるようになったが、いつどもるかわからないという恐さは常にあった。仕事がある程度できるようになっても、一生このままみじめなどもりかと思うと、欠落感につきまとわれた。あきらめと投げやりな気持ちを抱えたまま、私の二十代は過ぎて行った。
 三十を過ぎたころ、障がい児のボランティア仲間の紹介で大阪吃音教室の存在を知り、仕事の休みと講演会の日があっていたため、軽い気持ちで参加してみた。このとき伊藤さんの「どもりを受け入れて生きよう」「あなたはひとりではない、あなたはあなたのままでいい」という言葉がすっと私の中に落ちた。そうか、どもりは負のものではなかったのか。気がつくと私は十字架を下ろしていた。目の前に緑の沃野が広がった。心が自由になった。そのままで生きていいのだと思った。
 一つの言葉で人生が変わるということはある。しかし、いつどの言葉に出会うかは運が作用するにしても、それを受け入れるかどうかはこちら側の問題となる。十代で伊藤さんの言葉に出会っていても、それを受け入れられなかったかもしれない。十字架を背負っていると思い、どうにもならない状況にいたからこそ、伊藤さんの言葉がすっと入ってきたのかもしれない。
 今も相変わらず、どもったりどもらなかったりする。しかし、どもっても以前のように悲惨な気持ちにはならない。どもったときは「あせらない、あせらない」と一呼吸入れ、もう一度ゆっくり言いなおす余裕ができた。うまく言い替えができたときは、「私ってすごい」と思えるようになった。今はそんなときの自分を愛しいと感じる。また、油断の穴に落ちないように気をつけながら、できることはできると自信を持てるようになった。
 まだ、「どもりが治りませんように」とまでは祈れないが、どもりであることとJSPや大阪吃音教室の仲間に出会えたことは「福音」だと思っている。

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2012年度 最優秀賞

あるがままに

南 泰成

 私の人生は吃音の悩みが常につきまとっていた。
 学生時代は、国語の時間の本読み、人前での発表、自己紹介、電話などことばを発しなくてはならないあらゆる場面が恐怖だった。それらの場面では、自分の言いたいことを言おうとしてもひどくどもって声が出ず、ひたすら口をパクパク動かして足掻くことが頻繁にあった。自分がどもったせいで沈黙が流れたときの周りの冷たい視線やクスクスと笑う声が苦痛でたまらなかった。どもっている自分の姿は、ものすごくかっこ悪いものだと感じた。
 どもりたくない、他人に自分のどもっている姿を見られたくないという一心で、自然とどもりやすいことばを避け、似た意味を持つ別のことばに言い換えるようになっていた。しかし、自分の名前を名乗るときや国語の本読みなど、ことばを言い換えられない場面ではどうしようもなかった。どもったら馬鹿にされて周囲から嫌われる、どもりはいけないものだと思った私は、人と接する場面をなるべく避けるようになった。
 どうして自分ひとりだけがまともにスラスラ話せないのだろうか。当たり前のことができないことが悔しくて仕方がなかった。自分の苦しみを分かってくれる人はいないだろうと、仲の良い友人にさえどもりを打ち明けることはできなかった。常に孤独を感じていた。もしどもりが治ればなんでもうまくいくに違いないと常に思っていた。
 私の人生の中で最も辛かった経験は、大学3回生の冬頃から始めた就職活動だ。中学生の頃からあこがれていたプログラマーの仕事に就きたかった私は、主にIT企業の求人を中心に面接の応募をした。コンピューターが好きなことだけでなく、あまり人と接する機会が少ない仕事だと思っていたからだ。しかし、就職活動で人と話す場面は当然避けられない。プログラマーの仕事でもある程度のコミュニケーションスキルは必要であった。やはり吃音が大きな壁となった。
 会社説明会や面接を受けるために企業を訪問し、企業の受付の前に置いてある受話器で名前や学校名を伝える場面が苦手だった。名前を言おうとしてもことばがすぐに出ず、ひたすら沈黙が続くことが何回もあった。時には、立ち往生している私が心配になって、面接担当者が受付まで来てくれたこともある。自分の名前すらろくに言えないことは採用選考において絶対にマイナス評価になるだろうとため息をつくばかりだった。
 本番の面接や集団討論でもさんざんな結果であった。自分の人生が決まるかもしれない独特な緊張感が漂う空気のせいもあったのか、自己紹介や志望動機などを伝える場面ではほとんどまともに話すことができなかった。どもってはいけないと必死にことばを言い換えて話すことを試みたが、却って意味が伝わりにくくなってしまった。面接中にかかわらず、これ以上どもりたくない、早く帰りたいと思うことさえもあった。ほとんどの採用担当者が「緊張しないで、リラックスしてゆっくり話して下さい」と言うのだが、そんなことができる余裕はなかった。もちろん自分がどもりだとその場では決して言えなかった。
 面接が終わった後の帰り道はいつもひどく落ち込んだ。何日もずっと落ち込み続けていたこともあった。「こんなにどもっていては社会人としては失格だ。就職なんてできるわけがない。どうして自分だけ吃音を持って生まれてきたのだろうか。このまま吃音が治らなかったら自分の人生はお先真っ暗だ」と自分自身を悲観し続けた。悔しさと情けなさでいっぱいだった。
 当然のことながら、何度面接を受けても不採用が続いた。一次面接を通過したことすら一度もなかった。次第に面接に行くことに恐怖を感じた。面接の前夜はどもることが心配でほとんど寝られないこともあった。吃音を治したい、面接でどもらずにうまく話したいという一心で何度も自己紹介などの練習を繰り返したが、改善することはなかった。
 結局、約40社以上の選考で不採用になり、大学4回生の秋頃には就職活動を辞めてしまった。このまま継続していても時間の無駄だと思ったからだ。家に引きこもるようになった。
 同級生が次々と就職していく中で、就職もせずに大学を卒業し無職になってしまった。このまま家に引きこもっていては何も始まらない。ここまで育ててくれた両親にも申し訳ない。なんとかして吃音を克服して就職したいと思った。そこで、以前インターネットで吃音のことを調べていて知っていた大阪吃音教室の例会へ参加することを決心した。2011年4月のことであった。
 吃音教室に参加して、自分以外のどもる人に初めて会うことができた。世の中にこれだけたくさんのどもる人がいることに驚いた。自分と同じ悩みを持つ仲間にやっと出会えてうれしかった。皆自分と同じく吃音を持っているにも関わらず、どもることを気にせず、明るく笑顔で話す人ばかりだった。そして、ほとんどの人が社会人として、吃音とつきあいながらも立派に働いていることを知った。自分も早く仕事を探さなければいけないと思った。もっと早くここに来ていたらよかったと少し後悔したが、自分の吃音を見つめ直すことができる良いきっかけになったと希望がわいた。すぐに就職活動を再開することを決めた。
 学生時代に新卒として就職できず、社会人未経験だったため、限られた企業にしか面接の応募はできなかったが、何ヶ月かかってもあきらめずにがんばってみようと決心した。もちろん少しでも吃音を改善したい、それがだめなら吃音を受け入れたいという思いから吃音教室へも通い続けた。
 吃音教室に何ヶ月も毎週通い続け、毎回違ういろいろなテーマの講座を受けていくうちに、少しずつだが、自分の吃音に対しての意識が変化したことを実感した。その中でも「森田療法に学ぶ」の講座は大きな感銘を受けた。森田療法の考え方が、吃音に絡めて説明され、不安や恐怖などの対処が体験を通して語られ、話し合っていく。吃音に置き換えれば、「自分がどもるという事実をあるがままに受け入れること」である。
 私は今までどもる自分自身が嫌だった。どもることは恥ずべきことだと考え、必死にことばを言い換えてごまかしたり、人と接することから逃げたりするばかりであった。しかし、森田療法の講座を受けて、「吃音は決して悲観すべきものでも恥ずべきことでもない」、「吃音が治ることはないが、それを受け入れ、自信を持って堂々と話したらいい」と学んだ。この考え方にとても勇気づけられた。吃音の改善を目指すのではなく、吃音を受け入れていくことを決意した。
 大阪吃音教室の森田療法の講座から数ヶ月が経過し、気がついたら吃音を少しずつ受け入れられていることを実感した。人前でどもることに対してもほとんど抵抗がなくなり、どもってもあまり落ち込むことも少なくなった。以前の自分ではあり得ないことだ。
 その後の就職活動では、履歴書にあらかじめ自分がどもることを書いて面接官に伝えた。面接ではいくらひどくどもっても堂々と自分のことばで熱意をもって話すことを心がけた。それが功を奏したのか現在の会社に就職することができた。入社日の自己紹介では自分はどもることをどもりながらも隠さずに公表できた。幸い吃音を理解してくれる同僚らにも恵まれ、現在一人前のプログラマーになるため日々修行中である。
 どもりを受け入れる前と後では症状は一切変化していないが、会話をすることが本当に楽になった。どもりを隠すことなく、堂々とどもることができる今の自分こそ本当の自分なのだと思う。
 あのとき、大阪吃音教室へ通う決心ができて本当によかった。吃音教室で学んだすべての講座とかけがえのない仲間に出会えたことは私の財産である。
 どもりだからといってできないことは何ひとつないと思う。これからは、何事も逃げずチャレンジしたい。吃音と上手に共存し、あるがままの人生を歩むつもりだ。

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2011年度 最優秀賞

吃りの遺伝子

丹 佳子(たん かこ)

 婚活中である。40オンナに世間の目はそう温かくないが、まだ婚活中である。確かに美人てもんでもない。昔から「いいお母さんになりそう」とか「雰囲気がいいですね」とは言われてきたが、「きれいですね」なんてことは言われた試しがない。
 中学のときから、私は吃るようになった。それに気付いた父は「うちの家は代々吃りだから…」とぽつりと言った。実際、父も吃りである。そして、うちのご先祖様も吃りだった。名を丹(たん)任部(にんぶ)の守(かみ)という。豊臣秀吉の軍が四国征伐で攻めてきた際、任部の守の軍はこれを迎え撃ったそうだ。戦いは長時間におよんだ。勝敗がつかないまま夕刻近くになったとき、敵方の大将が任部の守に打ちかかってきた。暗闇がせまってくる中、任部の守の家臣が加勢にきたが、大将二人は似たような甲冑を着けていたため、どちらが任部の守かわからない。そこで家臣は「どちらが丹任部の守様か」と問うのだが、任部の守は吃りであったため、自分の名前がとっさに言えず、その間に相手方が「我こそが丹任部の守である」と言ったため、誤って殺されたという。そういう昔話とその霊を祭るための神社が残っているくらいだから、本当に吃りだったのだろう。
 それまで、国語の朗読を得意としていた私は、吃る自分を受け入れることが全くできなかった。授業中に先生に当てられて、答えがわかっているのに、最初の音がでなくて「わかりません」と言うのはつらかった。また、一生懸命答えを言おうとして真っ赤になっているのを、周りの子たちに笑われるのもつらかった。吃っている自分は本当の自分ではないと思った。最初のころは、そのうちすぐ元の吃っていない本当の自分に戻るにちがいないという期待をしていた。しかし、それが絶望に変わったころ、一つの誓いが心の中で芽吹いた。吃りに対して復讐である。「うちが吃りの家系であるなら、私が吃りの遺伝子を断ち切ってやる」と。
 自分の吃っている年月が、吃らなかった年月を追い越した20代後半くらいから、私は吃りは自分が背負うべき人生の重荷なのだと考えるようになり、あきらめと自虐に浸るようになっていた。進学のとき一番行きたかった外国語を学ぶ道に行けなかったのも、就職活動の面接で失敗し、希望したところに就職できなかったのも、なんとか就職した会社で電話の取り次ぎや朝礼当番になったときの司会がうまくできないのも、吃りなんだからしょうがないと、なげやりな気持ちになっていた。教師だった母は、私も教師になることを期待していたようだった。しかし、私は吃りなのに、人前で話すことが仕事の教師になんかなれるはずはないと思った。期待に添えないこともつらかった。
 現在はそれほどでもないが、このころの私は、言葉を出そうとする度、最初の音が喉の奥につっかえることが多かった。最初つっかえるとその後は、どんなに音をしぼりだそうとしても全く音がでなかった。違う音を探そうと、言い換えの言葉を探すのだが、あわてているから余計でてこない。顔を真っ赤にして、唇だけパクパクさせている沈黙の時間は、悲しくてみじめだった。その度、自分はやっぱりだめな人間なんだと思った。周りの人たちが、すらすらと話していることがうらやましかった。吃りさえなければ、自分の人生はもっといいものになっていたはずなのに、と自分の運命を恨んだ。だからそんなときは「吃りの遺伝子を断ち切ることが私の使命である」と思うようにしていた。そのとき私は吃りに対して復讐を完成させることができるのだから。
 それでも、それなりに恋をし、恋人ができたこともある。が、彼の前で吃りの自分を見せるのは嫌だったから、必死で隠そうとしていた。また「もし生まれた子供が吃りだったら」と考えることは恐かった。彼は、結婚したら子供を持って温かい家庭をつくりたいという、ごく普通の夢を語ってくれた。どこかで吃りの遺伝子が「滅ぼされないぞ」と笑っているような声が聞こえた気がした。結局、私から別れを切り出した。
 30歳のとき、大阪吃音教室に出会った。そこで、「吃りは遺伝しない」と教わった。なんとも拍子抜けをしたような気分になったのを今も覚えている。同時にやっぱりとも思った。吃りの遺伝子という呪縛を作って自分を縛っていただけ……自分の吃りから逃げるために、私はその言い訳として、「吃り」と「吃りの遺伝子」を使っていたと、どこかでは気づいていたのだ。だから、呪縛からの解放は、喜びではなく、今まで気づかないふりをしていたことに、向かいあわなければならないという苦しみをもたらした。面接で落とされ続けたのは、一度吃ってしまったら、落ち込んでしまって自信のなさそうな受け答えしかできなかったのが原因だということ、教師にならなかったのは、荒れるクラスを抑えるような力量は自分にはないことがわかっていたこと、外国語の道に進まなかったのは、一番好きなことで失敗したくなかったこと、恋人と別れたのは……子供のこともあるのだが、本当の原因はみじめな自分を一番好きな人に見せるのが嫌だったこと。心のどこかでうすうすは気づいていたが、「吃り」や「吃りの遺伝子」という言い訳を理由に、気づかないふりをし、努力もせず、ただただ逃げ出してきたことを認めなければならなかった。私は単なるプライドだけ高い臆病者のまぬけだったのだ。でも、伊藤さんや大阪吃音教室の仲間と関わるうちに、吃りを肯定することはできるようになっていた。「吃ってもいいんだ」と思えるようになったことで、生きることが楽になった。吃りの自分を受け入れることができるようになった。
 実は、大学で外国語を学ぶ道からは逃げたが、結局どこかであきらめられず、20代のころは英字新聞で、吃ってもいいんだと思うようになった30の頃からは英会話教室で、地道に英語の勉強は続けていた。今は英語の指導助手として来ているアメリカ人に英語と日本語を交えながら弓道を教えている。昨年暮れにはアメリカの家にも招待されて、昔あこがれたホームスティを体験できた。努力してきたことに救われた気がした。
 いつのまにか、私の心の中にあった憑きものの「吃りの遺伝子」は消えていた。今考えると莫迦げているのだが、つらかった10代、20代を生きる抜くためには、その存在は必要だったのかもしれない。今も吃ることはある。でも、楽に吃る方法を身につけたり、言い換えの語彙数を増やしたりしたことで、吃るからつらいということは少なくなった。今は吃りの自分を認めることができている。吃りのある人生をちゃんと生きたいと思う。もし、私に本当に「吃りの遺伝子」があって、それが我が子に遺伝してしまっても、今はそれを受け入れ、大丈夫だと言ってあげられるだろう。正しい知識も教えることができるし、吃りだからこそ深められる人生もあると言ってあげられるだろう。我が子……その前にパートナーを探さねば。これは努力だけではどうにもならないかもしれないが、今は前向きに、婚活、婚活! まあ、見つかっても見つからなくても、私の人生をちゃんと生きようという覚悟はできている

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