ことば文学賞 2009年度


最優秀賞 劣等感 堤野 瑛一  
 

 僕は、ずっと孤独だった。
 幼少のころから、他者と関係をもつことが苦手であり、億劫だった。友達と外で遊ぶよりも、家の中でひとり、電車の模型や、おもちゃのピアノで遊んだり、絵を描いていることが好きだった。そこにはいつも、自分だけの自由な世界が広がっていた。・・・

続きを読む・・・



優秀賞 机の上 掛田 力哉  
 

 職員室の机の上に、見慣れぬ小さな包みが置いてある。誰かがおみやげに買ってきてくれたものだろう、と予測がつく。私はいつもその瞬間、自分の心臓がドクンドクンと大きく波立つのをはっきりと自覚する。・・・

続きを読む・・・



優秀賞 イップスと吃り 川崎 益彦  
 

 イップスをご存知だろうか。ゴルフをする人なら聞いたことがあるだろう。・・・僕は6年ほど前にイップスにかかった。・・・原因も治療法も分からない謎の症状イップスを、僕はすぐに理解できた。なぜならイップスは、吃って声が出ないときの状態そのものだったからだ。・・・

続きを読む・・・


2009年度 最優秀賞

劣等感

堤野 瑛一

 僕は、ずっと孤独だった。
 幼少のころから、他者と関係をもつことが苦手であり、億劫だった。友達と外で遊ぶよりも、家の中でひとり、電車の模型や、おもちゃのピアノで遊んだり、絵を描いていることが好きだった。そこにはいつも、自分だけの自由な世界が広がっていた。誰にも邪魔をされたくなかった。
 当時は、男の子といえば、おもてで駆けまわったり、公園で野球をしたりするのが普通だったが、僕はそういうことには、まったく楽しさを見出せなかった。
 小学生になっても、中学生になっても、一貫して極度に運動音痴だった僕は、体育の授業が大変な苦痛だった。普通の男の子なら、誰にでも楽々とこなせるようなことが、僕にはうまくできずに、いつも恥をかかねばならなかったし、ドッヂボールなどは、僕にとってはただの拷問だった。父親はいつも、そういう僕を、男のくせに情けないやつだ、と嘲笑していた。
 僕は、緊張感ですぐにお腹をくだしてしまう体質だったので、授業中には毎時間、脂汗を流しながら、便意と戦っていた。
 遠足や修学旅行といえば、みんなにとっては喜ぶべき行事だが、トイレにいつでも行ける自由のきかない遠足とは、僕にとって恐怖でしかなかったし、他人と一緒だとほとんど眠れない僕には、修学旅行とは気の遠くなるような苦行だった。
 遠足や運動会の前日、みんながわくわくと明日を待ち望んでいるのをひしひしと感じながら、僕はひとり、明日が雨になることを、切実に願った。そういうときにはいつも、泣きたくなるような孤独を感じた。僕が切実に望むようなことは、いつだって、ほかの誰も望んでいないことなのだから。
 みんなが好きなことが嫌いであるだけではない。僕は音楽といえばクラシック音楽が好きだったが、音楽の授業でのクラシック音楽鑑賞の時間とは、みんなが退屈するもの、嫌な顔をすべきものでり、自分がクラシック音楽を好きであることは、誰にも言えなかった。
 とにかく僕は、趣味趣向や、興味の対象、物事の感じ方が、みんなとは極端に違っていて、書き出せば切りがないが、好きなことを堂々と好きだと言えない、嫌なことを嫌だと言えない窮屈さに、日々悶えていた。
 小学四年生のころには、僕にチックの症状が出はじめた。そのことで、級友にからかわれたり、担任の教師には煙たい顔をされたりもし、自分はみんなと違っている、自分は劣等品種であるという意識は、それまで以上に顕著なものとなった。
 家にいれば、早くチックを治せと父親には罵倒され、ときには殴られ、蹴られ、母親には、いつになったら治るのだと毎日責められ続けた。かと思えば、弟と母親が一緒になって僕のチックの真似をし、二人して大笑いすることもあった。そういう生活が、延々と続いた。
 学校にも家庭にも、心安らぐ場所はひとつもない。いつどこにいても、他者とは自分を傷つけるもの、脅やかすもの、はずかしめるものだった。
 集団の中で生きていくとは、なんて苦しいことなんだろう!? 人生とは、なんて過酷なんだろう!? こんなにも生きる適性を欠いた自分が、この先生きていけるのだろうか? ああ、誰とも関わらずに、ひとりで生きられるような世界があったなら! 僕は、そんなことばかりを考えていた。将来大人になり、自立して一端の社会人になっている自分の姿など、まったく想像出来なかった。
 それでも、自分の劣等性を可能なかぎりごまかし、背伸びをして「普通」を演じようと努め、ほとんどギリギリの状態で、なんとか学生生活をやり過ごしていたのだが、高校生のとき、そんな僕にとどめを刺すようなことが起こった。僕は、どもりになってしまったのだ。その挙句、せっかく必死に努力をして入学した大学さえも、どもりによる不自由、劣等感にくじかれてしまい、退学してしまった。
 僕は、自分の境遇、人生を、心底憎んだ。なんで俺ばかりがこんな目に!? なんで俺ばかりがこんな目に!? もはやそんな言葉しか浮かばず、それまでずっとこらえてきて溜まりに溜まっていた涙が、一気に流れ出た。僕は、本当に孤独だった。

 それ以後数年間は、無気力で、荒れた生活が続いた。精神的にかなりすさんでいて、犯罪にも手を出し、絶望的な気持ちで日々を過ごしていたが、他方、完全にぐれたり、死ぬ勇気もなかった僕は、なんとか生きる術を身につけなければならないと、常に頭の片隅では考えていた。
 僕が考えていたこととは、どもりを治すことだった。どもりさえ治ってくれれば、もうほかにはなにも望まない。どもりに比べれば、以前より抱えていたほかの劣等性など大したことではない。どもりが治るためならば、どんな苦しいことだってする。どもりさえ治れば、あとはどうにだってなる――そう考えていた僕は、毎日毎日発声練習を続け、どもりを治してくれるかもしれないと思えば、どんな治療機関にでも駆け込んだ。
 しかし、なにをやっても、どもりが治るような兆しは一向にみられず、何度も何度も期待をくじかれ、疲れ果て、僕はもうボロボロになってしまった。
 とことんまで落ち込み、消耗しつくしたとき、自分は一体なんのために一生懸命になっているんだろうという疑問が、頭をかすめるようになった。僕は、どもりが治ることだけを夢に見て、それに莫大なエネルギーを注いできたが、仮にどもりが治ってみたところで、それはなんてことない「普通」である。僕のこれまでの人生の苦しみは、「普通」でないことへの苦しみだった。なぜ「普通」でないことに、そこまで劣等意識をもつ必要があろうか? なぜいつも自分だけが、たかだか「普通」のために身を削って努力せねばならないのか? ああ、なんて馬鹿らしいのだろう!? どもりは治らないとわかった今、もう「普通」ではない自分を認め、「普通」をあきらめるほんの少しの勇気さえあれば、僕は生きていけるのではないか!? 僕には、ありのままの自分でいる権利があるはずではないか!?

 僕は、どもりを治す努力を一切やめ、どもる人間として生きていく決心をした。その決心の表れとしての大きな第一歩が、大阪吃音教室への継続的な参加だった。そこで僕は、以前はまともに向き合うことが嫌で嫌で仕方がなかった自分のどもりと正面から向き合い、自分がどもる人間であることを素直に認めた。それだけではなく、チック症や、そのほか以前より抱えていた自分の劣等性、劣等感すべてと、僕は正直な気持ちで向き合うようになった。
 どもりを認めたといっても、その瞬間から劣等感が消えうせたわけではない。人前でどもってどもって話すことは、たしかに少々こたえるものがあったが、少なくとも、背伸びをしたり、借り物の衣装を無理に着ているのではない<自分自身>を、そこに感じることができた。チックの症状が人目に触れることに、なんの抵抗も恥ずかしさもなくなったわけではないが、しかし、それが自分なのだと認め、開示をすることで、僕はほかの誰でもない自分自身を生きているという感じがした。
 僕は自分の人生においてようやく、優劣や価値にとらわれない、ただあるがままの<自分自身>になることができた。
 大阪吃音教室でのどもる仲間との出会いは、戦友を得たようで頼もしく、嬉しかった。週に一度の例会には、毎週積極的に参加をした。
 しかし、そういう仲間の中にいても、僕は安易にみんなと同化してしまうのではなく 、あくまで自分固有の感じ方、考え方、自分の体験を通じての直観を大切にし、自分の言葉で発言をしていった。日常のあらゆる場でも、僕はあくまで、僕個人の言葉を語り、相手の話にも真剣に耳を傾け、良くも悪くも、他者と正面からぶつかるようになった。
 その結果、他者と大きな対立をし、相手も自分も大きく傷つけることもあったが、他方で、(僕の勘違いかもしれないが)僕をとても信頼してくれる人も、ポツポツと現れだした。劣等感に苛まれつづけた昔の僕には考えられないことだが、あらゆる他者との正面きってのかかわりの中で、自分の人生の主体はあくまで自分であるという感覚や、自分は一個人として共同体の中で生きているという感覚がもてるようになった。
 僕は今でも、劣等感のすべてから解放されたわけではないし、僕は今でも孤独である。しかし、孤立はしていない。この世界には自分のような人間でも生きられる空間がある、僕は生きていける、という思いがある。
 劣等性や劣等感は、人生の過酷さだけではなく、その過酷さを生き抜いてきたからこそ味わえる喜びを教えてくれた。それに、こういう境遇を生きてこなければ、たぶん味わえなかったような人の温かさを、ほんのときどき感じさせてくれる。
 どのように生きたって、いずれこの人生は終わる。それなら、僕はあくまで自分自身を生き、自分自身をもって他者とかかわり、そして、自分自身を死にたい。

【選者講評】
 読み始めから、ぐんぐん引き込まれ、一気に読み進んでしまう。その文章力に圧倒される。「劣等感」というひとつのテーマを深く掘り下げ、自分をみつめていく。同じような体験をしてきた人なら、作者の心の軌跡を一緒に辿りながら読み進めることができる。淡々と、飾り気のない文章は、余分なものがなく、表現は実に細やかである。自分の内面を手探りしながら、自分のことばを探るときの、ことばのもつ力強さを感じさせてくれる。
 理想とする自分と、現実の自分とのあまりの違いに立ち尽くし、自分を変えたいと莫大なエネルギーを使い、疲れ果て、ボロボロになる。もがき尽くした絶望があったからこそ、作者は、<あるがままの自分自身を生きる>ことを選択することができたのだろう。孤独だが、孤立はしていないということばに、ほっとさせられる。

【作者感想】
 劣等感や孤独という観点から、自分の半生を綴ってみました。
 僕は、本当に孤独でしたが、孤独を生きてこなければ、きっとわからなかった人間観や人生観、見えなかった世界があると思っています。
 人間は本来、誰もがある意味孤独であると思いますが、安易で軽率な共感や仲間意識が、本来各人がもっているはずの豊かな固有性を塗りつぶしているように思います。
 孤独は、辛く寂しいことでもありますが、だけど一方で、とても豊かな感受性というか、世界をよく観る目を養ってくれるように思います。
 それに、吃音ショートコースという、こんなにも温かい場で、最優秀賞までいただけるのですから、苦しかったけれど、孤独を一生懸命に生きてきてよかった、と思います。
 本当に、ありがとうございました。

このページの先頭に戻る


2009年度 優秀賞

机の上

掛田 力哉

 職員室の机の上に、見慣れぬ小さな包みが置いてある。誰かがおみやげに買ってきてくれたものだろう、と予測がつく。私はいつもその瞬間、自分の心臓がドクンドクンと大きく波立つのをはっきりと自覚する。
 名前が書いてあればいい。その人とすれ違った瞬間などに、礼をいうことができる。私は「おみやげ、ありがとうございます」の「お」も「あ」も出にくいので、ふと思い出したようなそぶりで、「あっ、そういえば、あのっ、あれっ・・」と話を向けてみる。向こうはおみやげの事とすぐに気づいてくれるので、「ああ、どこそこへ行ったので・・」など言葉を返してくれる。そうすると私は安心して、「いつもすみません」とか、時にはスムーズに「ありがとうございました」と笑顔で、さわやかに礼を述べることができるのである。
 しかし、誰からのものかわからないとき、事態は一変する。忙しそうに仕事をする人の背中に向かって、「これをくれた人物がだれなのか」を問いかけるのは、私にとって至難の業である。ようやく声がでて、振り向いてくれればまだ救われる。なかなか気づいてもらえないときなどは、逃げ出したくなるほどである。しかし、そうするわけにもいかぬので、軽く相手の肩を叩いてみたり、思い切り顔を覗き込んで「ちょっとすみません」と言ってみたりすることを、私は長年の経験の中で覚えてきた。もちろん相手は驚いた顔を見せるが、仕方がない。「いやあ、すみません」と精一杯笑いながら、「あの、これっ、これは・・」といつもの調子で聞いてみるのである。当人の名が分かればもちろんありがたいが、再び私に待っているのは、その人を見つけ、声をかけ、「ありがとう」の一言を言うまでの、緊張感に満ちたしばらくの時間なのである。
 それでも・・・。以前の私よりは大分ましである。吃ることを悟られまいと懸命に隠し続けていた頃。アルバイト先の机の上に置いてくれてあるお茶やら飴やらを、ありがたいと感じた事は一度もなかった。お茶を飲んでしまっては、誰かに礼を言わねばならぬ。私はしばしば「気付かなかった」事にしてそのお茶を放置した。机の上にはいつまでも冷え切ったお茶が置かれており、いつしか、誰かがそのお茶を片付けてくれていた。私は、それも何もかも全て「知らなかった」事にしていた。
 吃音の問題は、表面上に見える「吃症状」にばかりあるのではなく、むしろ隠された部分、氷山で言えば水面下にある部分にその多くが存在すると言われる。人と関わることを恐れ、人の厚意を粗末にし続けていた頃の自身を支配していたのは、「自分はなんと情けない、愚かな人間なのだ」という激しい劣等感だった。
 それでも、私はいつも何かしらの仕事はしていた。焼き肉屋、スナック、百円ショップの店員、旅行添乗員、遊園地係員、塾講師・・・。振り返ってみると、人を相手に話しをしなければならないアルバイトばかりを選んでいた。あんなに吃りに悩み、ひた隠しにしながらも、私はなぜ話さなくても良い仕事に就こうとは考えなかったのだろうと、我ながら不思議に思う。仕事の中で、吃ることで立ち往生した場面は数え切れない。講師をした塾では、帰宅時に玄関前に立ち、職場の全員に向かって「お先に失礼します」と言わなければならない決まりがあった。「お」が出にくい私は仕事が終わっても帰るタイミングがつかめず、ロッカールームでいつも1時間近く冷や汗をかき続けていたものである。
 そんな私が仕事を続け、また新たな仕事へ挑戦することが出来たのは、それぞれの仕事を通じて、「何とかなる」という確信のようなものを培うことができていったからである。塾では、授業時間の数倍もの時間を教材研究に費やした。ある日、自分の授業を見に来た上司が、その内容を他の講師たちの前で褒めてくれた。それ以来、その上司は私が玄関前で足をバタバタさせていることに気付くと、さりげなく目配せして帰宅を促してくれるようにもなった。流暢に話すこと以外でも、仕事で認められる方法はいくらでもあり、また自分なりに努力することで、人の役に立てることも少しずつ知っていった。相変わらず机の上のお茶はなるべく飲まぬようにし、仕事が終わると、誰と話すこともなくそそくさと家に帰っていたが、仕事の面では、私は吃音に困りながらも、吃音に囚われるということはなくなっていた。自分にも出来ることがあると、自信を持ち始めていたのも確かだ。
 大学卒業後1年が過ぎた頃、私に小学校の非常勤講師をする機会が巡ってきた。自分と同じ苦しみを持つ子どものために生きたいと願い、苦労して教育大学に進み、やっと手にした教壇であった。意気揚々と通い始めたが、事態はあっと言う間に苦しいものになっていった。授業中に立ち上がり、紙ヒコーキを飛ばし合う子どもたちの言動に振り回され、自分の弱さを知られまいと、大声をあげては自己嫌悪に苛まれた。指導教官からは、厳しく注意されるばかり。他の先生にも相談するべきだったが、忙しそうに働く背中に、吃りながら声をかける勇気がなかった。一人鬱々と悩んだ。かつての劣等感がみるみる自身を襲っていくのを感じた。1年間の契約終了を待たずして、私は半年で職場をあとにした。
 念願の教師の仕事に挫折して、私はどん底に追いやられた。しばらくは何をする気も起きず、仕事に向かう母親の弁当を作ったりして1ヶ月半ほどを過ごした。唯一通っていた英語スクールを修了するころ、担当者の方から「自分の会社で働いてみないか」と声をかけていただいた。さすがに躊躇したが、もう失うものは何もなく、こんな自分を拾ってくれるなら思い切りやってみよう、ダメならもうそれまでと、その会社に初めて正社員として就職させてもらった。言語教育を事業とするその会社では、「言葉を獲得するとはどういうことか」といった題材について、社員が毎月交代でエッセーを書き、社員や会員に配っていた。私はその中で、初めて自分が吃音であることを告白し、吃音であるが故に、自身がことばの問題、教育の問題に自分なりにずっとこだわり続けてきたことを素直に書いた。驚いたことに、「とても感動した」という感想をたくさんもらい、私は長年自分が一人で背負い続けてきたものからようやく少し開放されたような、不思議な感覚を覚えた。また、自分が「吃る」ということが、他の様々な人にとっても、何らかの意味をもつことがあるかも知れぬと考え始めるようにもなった。
 会社勤めをして2年が経った頃、私は書店で一冊の本と出会った。「吃音相談室」という本である。「吃音」と大きく書いてあるその本を私は後ろ手に隠してレジへ運び、その夜から付箋をはりながら夢中で読み始めた。本の中の伊藤少年が味わった苦しみは、一人孤独に悩んでいた、ちっぽけな少年の頃の自分のそれと同じだった。気づけば私は何度も独り言に「おんなじだ!」と叫び、涙を止められなくなっていた。どうしてもこの本を書いた伊藤という人に会ってみたい、という思いはどんどん膨れ上がり、2年間働いたその会社を辞め、26歳で一人大阪へ引っ越した。
 大阪教育大学の講義で、本の著者である伊藤伸二という人に出会うことができ、私は吃る人たちがあつまる大阪吃音教室に誘われた。そこでは、皆が自然に吃りながら話し、自分の吃りについて真剣に考え、時には冗談を言い合って大笑いしていた。教室が終わる時間になっても、最寄りの駅の前に立って、同世代の人たちと他愛のない話を延々とし続けた。私は、まるで夢を見ているようだった。仕事以外の人間関係を、これほどに心地よいと感じ、大切に思ったことはなかった。毎週金曜日が来るのが待ち遠しく、自分がそんな風に感じることが信じられなかった。それから7年間、伊藤さん始め、教室の沢山の人たちに出会う中で、自分の吃音について、自分の生き方についてじっくり考える機会を沢山いただいた。そして、もう一度原点に戻って教師になる決意をし、教員の採用試験に合格することができた。4年前には、吃音を通して出会った人と結婚もできた。人との関わりを避け続けていた自分には分からないこと、気づいてこれなかったことを、結婚相手の女性からは数多く教えられてきた。そして昨年は、長年自身を苦しめてきた吃音のことを子どもたちに伝えるという役割で、テレビに出演することにもなった。多くの出会いの中で、私はこれまでの人生で学んでこれなかったこと、経験できなかったことを、一気に取り戻すような7年間を過ごしてきた。そしてそれら全ての時間や出会いをくれたのは、他でもない吃音そのものなのであった。
 今年の夏、私は妻に倣って初めて職場の人にお土産を買ってみた。買ったはいいものの、いざそれを渡す日となると、私は不安を抑えられないでいた。以前の私ならば・・・、やはり諦めていただろう。しかし、今年はなぜか「渡してみたい」と思う気持ちの方が強かった。職員室を覗き、あまり人がいないのを確認すると、私は一気に机に向かい、隣の同僚に一言仕事の質問をしてから、「あっ、そう言えば・・・」と思いだしたようなそぶりで、「はい」と渡した。向こうも素直に喜んでくれ、「どこへ行ったんですか?」「ああ、ちょっと横浜に・・」と忙しい朝に少しだけ話に花が咲いた。職場では仕事の話だけをすればよいと長い間思っていた。しかし、それだけでは味気ない。せっかく出会った人と、せっかくだから色々な話もしてみたい。他愛ない話の中にこそ、仕事を豊かにするヒントがあるのかも知れない。そんな風に感じられる自分が、今ここにいる。私がいつも人と関わる仕事を選んでいたのは、やはり私が根本的に人を好きだからなのではないか。不器用ながら、下手くそながら、吃りながらも、人と関わり、人と言葉を交わし、人を知ろうとする自分であり続けたい。そして、いつも私の机の上にお茶や飴をさりげなく置いてくれていた人たちのように、いつか私もさりげなく人を思いやれるような人間になりたいと強く思う。今日も職員室のドアを入る。机の上に何もないことを見て・・・、ホッとする自分がいるのもまた事実なのだが。

【選者講評】
 机の上のおみやげ、机の上のお茶、一般的にはただ「ありがとう」と受け取るだけの話だ。しかし、その「ありがとう」が言えない人間にとっては、苦痛になる。吃音に悩んだ経験のない人なら、想像もできない世界だろう。この日常の何気ない小さなできごとをきりとって、丁寧に書き綴っている。吃音の苦悩を「机の上」にスポットを当てながら、吃音とのつき合いの歴史を綴っていく。こんな、些細な、誰もが難なく通り過ぎていく人と人との関わりの風景で、ここまで、感じ、考えることができる吃音は、なんて人を豊かにさせるものだと、実感する。人生のさまざまな場面で、吃音は常に作者と共にあり、吃音と真摯に向き合うことで、作者は自分の人生をつかみとってきた。不器用だけれども、人が好きで、人と関わり、人とことばを交わし、人を知ろうとする自分であり続けたいと思う作者と、私たちもこれからも長いおつきあいをしたいと願っている。最後におみやげの話に戻る、そんな構成もすてきだ。

【作者感想】
 私たちも吃音教室でコミュニケーションの力を磨く様々な取り組みをしていますが、こと「快活」で「明朗」、「流暢な」言語コミュニケーションの力ばかりが強調される世間の風潮とは、全く質を異にするものです。画一的な「コミュニケーション力」がとても気になって、今回の作品を書いてみたいという気持ちになりました。雑談ができず、授業や仕事の合間の「隙間の時間」を恐れ続けた自身の体験と、その意識を変えさせてくれた吃音教室での学びや多くの人との出会いを書きとめておくことができ、またこんな素晴らしい賞も頂くことができて、感謝でいっぱいです。本当にありがとうございました!

このページの先頭に戻る


2009年度 優秀賞

イップスと吃り

川崎 益彦

 イップスをご存知だろうか。ゴルフをする人なら聞いたことがあるだろう。イップスとは、ゴルフのスイングの開始時又は途中で、緊張のあまり手がしびれてボールを打てなくなる症状のことを言う。僕は6年ほど前にイップスにかかった。それまでの2、3年は、年間60回ほどコースに出てゴルフを楽しんでいた。イップスになってからも何回かはゴルフに行ったが、3年前に完全に止めた。原因も治療法も分からない謎の症状イップスを、僕はすぐに理解できた。なぜならイップスは、吃って声が出ないときの状態そのものだったからだ。
 小さい頃から僕は運動が苦手だった。それが15年ほど前から仕事の関係で、本格的にゴルフをするようになった。初めのうちはショットも下手でスコアも悪いが、広々としたゴルフ場でプレーすること自体がとても気持ちよく、ゴルフに行くのがとても楽しかった。単調な練習も楽しく、一所懸命ゴルフボールを打ち続けた。そのうちスコアも良くなっていき、ワンラウンド100を切るようになり、しばらくして時々80台も出るようになった。
 ある時、ショットがスムーズに出来ないことに気付いた。身体が思うように動かないのである。毎回ではないが、ボールを打とうとバックスイングを開始して、トップの位置(クラブが最も上に上がること)からダウンスイングに移ろうとすると、時々身体が固まってしまい、クラブを振り下ろせなくなった。「あれっ?どうしたんやろ?」。スイングのリズムも何もあったものではない。トップで完全に固まってしまうのである。無理やり振り下ろそうとすると、上半身が崩れ、クラブは本来通過するはずの軌道から大幅に外れ、ボールの30センチ手前の地面を叩いてボールは微動だにしないか、例え当たったとしてもボールはとんでもない方向に飛んでいってしまう。この不可解な症状が、少数のゴルファーを悩ますイップスだということはすぐに分かった。同時に僕は、イップスの本質を一瞬で理解した。なぜならイップスは、身体が吃って難発の状態と一緒だからだ。僕たちどもりは声を出せるし、出し方も知っている。しかしながら例えどんなに簡単な言葉、例えば自分の名前でも、声が出ない時はなかなかその名前を言えない。いくら口の形を意識して作っても、いくらそっと息を出そうとしても、いくら最初の音だけを出そうとしても、簡単にはうまくいかない。無理に出そうとすると、何度も声にならない声が連続して出た挙句、最後にはとうとう爆発したように声が出る。声というより怒鳴り声かもしれない。イップスも同じで、身体のどの部分をどの順番で動かしたらいいか、どの軌道をクラブが通ればいいかを理解しているのに、身体が硬直してしまう。無理に振り下ろすと、トップで痙攣したような動きの後、上半身が突っ込み、まるで怒鳴るような強い力で地面を叩きつけてしまう。僕がイップスになるずっと前のことだが、一緒にラウンドした中年の男性がイップスだった。その人はゴルフが上手く、ティーショット、セカンドショット両方ともナイスショットで、二打でボールはグリーンを捉えた。カップまでまだ相当距離があったが、最初のパットで難なく寄せた。そこまでは順調だったが、ドラマは次の瞬間起こった。普通に打てば簡単に入りそうなパットを、異様に長い時間かけてアドレスをとっている。やっと打ったボールはとんでもなく強く、カップをはるかにオーバーした。そして二打でグリーンを捉えていたにもかかわらず、ホールアウトするまでに、何打も費やしたのである。僕は驚いた。これが話に聞いたことのあるイップスだと初めて知った。そして一緒にラウンドしたメンバーも、その人に気の毒で声もかけられなかった。
 他にイップスと吃音の共通点として僕が考えるのが、「DCモデル」である。「DCモデル」とは「話し手が自らに課した流暢にしゃべるようにという要求(デマンド)が、話し手の能力(キャパシティ)をある程度以上超えた時に崩壊する」という考え方だが、これはイップスに見事に当てはまると思う。イップスは国内外を問わずプロゴルファーに多い。イップスにかかり、選手生命を終えるプロもいる。僕の場合は、もともと運動は苦手だが練習の結果たまたまゴルフが上手くなった。もっと上手くなりたいと、より高い精度を求めて一所懸命練習した結果、DCモデルでいうところの要求が能力を超えて、身体が吃り出したと思われる。
 僕は自分のイップスをなんとか克服しようと必死で努力した。ゴルフ関係の仕事といってもプロではないので、自分のゴルフが下手でも仕事には関係ないし、収入が減るわけでもない。ラウンドするときに大金を賭けてるわけでもないし、気を使う相手とばかりラウンドするわけでもない。しかし、ゴルフは仕事上必要だ。事実、それまでは年間60回ほどプレーしていたのだから、急にゴルフ出来ませんとは言えない。会社の主催するゴルフコンペや社内コンペ、業界団体の付き合いなどゴルフをしなければならない機会は数多くある。自分でコンペを企画する時など、実際にコースを下見して、いろんなことを決めなければならない。イップスを克服しようといろんなプロに診てもらったが、練習すればするほど悪化した。実際にゴルフコースに行くと、最初のホールはイップスは出ないが、すぐに身体がイップスを思い出してしまう。また吃音と同じように、次のショットはイップスにならないだろうかという予期不安ばかりで、楽しんでラウンドするどころではない。自分一人が悩んで苦しんでいるだけなら他の人に迷惑はかからないが、一打ごとに数秒、ひどいときは10秒以上止まってしまうわけだから、プレーが遅くなる。その上、ゴルフを始めたときよりもクラブがボールに当たらないから、超初心者のようにいつまで経ってもホールアウト出来ず、プレーの進行がものすごく遅くなり、同伴者や後続の組に迷惑がかかり、キャディーさんに注意される始末である。難発がひどく、吃り吃り必死にしゃべっているのに、「早く話しなさい」と言われるのと同じだ。
 イップスを治療するための本も手に入れた。目次を見て驚いたのは、まず始めにイップスの本態について、精神医学的及び生理学的考察が書かれていた。克服法としては、打ち方を変える、片目をつぶる、リズムを変える、手の握り方を逆にする、道具を変えるなど、まるで吃音の注意転換法とそっくりだ。他にも催眠療法や自律訓練法、座禅、薬物療法など、吃音治療の本に出てくるのとそっくり同じような内容が載っていた。これを見て僕はこの本を読むのを止めた。イップスを治すのは無理だと思った。それなら、吃りと付き合うように、イップスと付き合えばいいではないか。
 僕は小さいときから吃って惨めな思いをし、どもりを恥ずかしく感じ、ずっとどもりを隠し続けてきた。長い間、自分のどもりが他の人に知れたら自分はもうおしまいだと思い込んでいた。それが大阪吃音教室に通いだして、どもりとうまく付き合っている人たちと出会い、毎回休まずに例会に出席する中で、僕は自分のどもりを認めることができ、吃ったままでも自分の人生を楽しむことが出来るようになった。これほど辛かったどもりを受け入れることが出来たのに、なぜかイップスは認めることが出来なかった。イップスになった自分を否定し、イップスを恨んだ。身体が吃っているわけだから、どもりを認め、どもりと付き合っている僕なら、イップスとうまく付き合ってゴルフを続けることが出来るかも知れないと思ったが、それも出来なかった。プロでもないからスコアが悪くても何の問題もない、ゴルフがうまいにこしたことはないが別に下手でもかまわない、といったような論理療法的思考方法でなんとかゴルフを続けようとしたが、それでもゴルフが苦痛で苦痛でしょうがなかった。ゴルフが億劫になり、イップスで苦しんでいる場面を何度も何度も繰り返し夢にまで見るようになった。誘われると申し訳ないと思いつつ、断るようになった。相手にしてみると、僕が今まで喜んでゴルフに行っていたわけだから、どうしてか尋ねる。そこで説明しなければならないのが苦痛だった。どもりと同じく、イップスを説明しても相手はなかなかその大変さを理解してくれない。そしてとうとうゴルフを完全にやめた。完全に止めると、誰からもゴルフを誘われなくなった。それでも数ヶ月はイップスで苦しんでいる夢を何度も見た。
 どもりは受け入れられたのに、イップスを受け入れられなかった理由は、おそらく、つい数ヶ月前までは楽しくプレー出来ていたのだから、努力すればなんとか治るに違いないと思っていたからだろう。どもりは徹底的に悩んで苦しんだから諦めることができたのだろうか。イップスは何度も夢にまで見ているとはいえ、苦しみ方、悩み方が足りなかったから諦め切れなかったのだろうか。
 今は最後にラウンドしてから3年以上プレーしていない。でも仕事でコースに行くことは時々ある。青空の下、広々としたゴルフ場での気持ちのよいプレーを忘れたわけではないので、ゴルフ場で楽しそうにプレーしている人を見ると、とても羨ましく感じ、ゴルフが出来ない自分が情けなくなる。以前、僕が大ファンである日本を代表する指揮者と一緒にプレーする機会があったのに、断ってしまった。昨年からは僕の二人の子どもがゴルフを始めた。子どもと一緒にコースでプレーというのが夢だったが、その夢も叶わない。でも、このような情けない気持ち、惨めな気持ちも、最近はだんだんと薄れてきた。ゴルフをしない自分というものが当たり前になってきたのかもしれない。ただ、子どもたちと一緒にプレーできないのがとても残念で寂しい。

【選者講評】
 これまでのことば文学賞にはなかった作風である。体験を綴ると、物語のようになってしまうのだが、この作品は科学的な読み物風になっていて新鮮であった。
 ことば以外にも吃音に似た現象が起こることは、以前から指摘されていた。例えば、ボーリングでガーターを出すことなどを言われたことがある。しかし、ただ運動神経が悪いからとか、緊張したときに起こる、誰にでも起こる問題だとも考えられた。
 この作品は、ゴルフの経験と自分のどもりの体験を結びつけ、共通点を見いだしていくが、これまでになく、吃音と類似していると納得できる。ことばとからだの深くて密接なつながりを改めて感じさせられた。どもりは受け入れられたのに、イップスはなかなか受け入れられなかったところが、また人間らしくておもしろい。
 子どもと一緒にプレーできない寂しさを綴った最後の数行は、作者の愛情あふれる父親像を思い起こさせ、ほほえましい。

【作者感想】
 今回の作品が優秀賞に選ばれて、とても驚いています。というのは、この文章はどもりの体験でもことばについてでもなく、ゴルフの苦しみについて書いたものですから。今の僕は、吃る自分を認めるのに何の感情もなしにただ事実を認めることができますが、ゴルフができない自分を認めるのは、いまだに正直つらいです。どもりの方が悩みとしてははるかに大きかったのに、何ででしょうね。

このページの先頭に戻る


各年度最優秀賞受賞作品ページへ ことば文学賞・応募原稿募集要項