今は“ぞうさん”の気持ち

佐々木和子(43歳 ろう学校教員)

 1年半前のある日、息子が突然どもり始めた。バスが大好きで、江津に行く途中、車窓から見えるバス停名をいつものように唱えていた時、「新敬川」のバス停の前で「新ううううやがわ」とどもったことに私は動揺した。「まさかどもったのでは」、襲ってくる不安を押さえて、今までとは何も変わらない、何事もなかったと信じようとした。しかし、この一言をきっかけに、息子は話すことば一言ひとことにどもるようになった。「なぜ?今まで流暢に話していたのに」。私は事態を受け入れることができなかった。
 私自身もどもる。今も、自分の意志に反してことばが出ない状態に陥る。その私が、自分のどもりは棚に上げて、息子のどもりは何とか治そうと、やっきになった。自分ではどうすることもできないことを知り尽くしている私が、幼い息子に自分でコントロールして流暢に話すことを要求し続けた。息子の気持ちを一番分かってやれるはずの私が、息子のどもりにこだわり、息子のどもりを拒否し続けた。息子がどもり始めてからは、どんなに楽しいひとときを過ごしていても私の心が晴れることはなかった。いつも心の奥に重い気持ちを引きずっていた。
 夫からは、「どもったっていいじゃないか。なぜ、自分のどもりは認めることができるのに、息子のは認めることができないのか」と不思議がられた。「どもることイコールマイナスではない」「どもってもいい」と頭では分かっていても、目の前でどもる息子を見ると、心にさざ波が立ち始め、それが大きな波のうねりとなり爆発する。「どもらないで!」と。
 2001年、吃音ショートコースに参加し、私の心に重くのしかかっていたこの大きな問題を解決することができた。キーワードは「諦める」ということばだった。話し合いの中で『諦めること』とは「明らかに見極めること、こだわらないこと、ほったらかすのではない、物の道理を明らかにすること」であることを学んだ。
 今、私は、自分のどもりで悩み苦しむことからは解放されている。幼い頃から、人一倍どもりに嫌悪感を持ち、しゃべることから徹底的に逃げていた私が、なぜ自分のどもりを受け入れることができるようになったのか、と考えていくと、「諦めた」からだということに気づいた。ひょんなことから、しゃべる職業に就き、初めの何年かはうまくしゃべれないことに落ち込む日々を送っていたが、いつも落ち込んでいられないほどにどもる場面を経験すると、「まっ、いいか」という気持ちになってきた。私は自分のどもりと向かい合い、葛藤する中で「まっ、いいか」と自分のどもりを諦めていったのだった。
 流暢に話せない、ブロック症状が激しくて立ち往生し、緊張すると何を言っているか相手に伝わらないしゃべり方になる自分。様々な自分の姿を「まっ、いいか」と諦めることができるようになった。諦めるとは、今のままの自分でいいと自己肯定することだ。どもることが私のセールスポイントだと、どもることに価値を見出してくれていた夫のお陰で、私は自己肯定の道を歩き始めることができた。今度は私が、息子のどもりに価値を見出してやれば良いのだ。
 私は今まで『諦めること』は悪いこと、負けることだと思っていた。何事に対しても、最後まで諦めない、努力し続けることが良いことだと考えていた。だから、親である私は、息子のどもりを諦めてはいけない。流暢に話せるようになるまで諦めないで、どもりにこだわって、どもりを消さなくてはならないと考えていた。こだわり続けていると、息子がどもるその一言ひとことが無性に気になる。言い直しをさせることは良くないことだと十分知っているのに、どもるのが妙に癩にさわり、言い直しをさせ、どもりを消していくことにとらわれていた。まさに、母親である私が息子に自己否定の呪いをかけていたのだ。
 吃音ショートコースに参加されていたある女性のスピーチ・セラピストの方が、「自分は二十歳の時、親が諦めてくれたお陰で楽になった」と語っていた。この話を聞いて、私は親が子どもを「諦める」ことが「今のままのあなたでいい」という自己肯定のメッセージを送ることになるということに気づいたのだった。
 私は息子を自分の理想に近づけようとしていたのだ。だから絶えず今の息子の姿に満足できず、「今のままのあなたではいけない」「もつと素晴らしい子どもになりなさい」と自己否定のメッセージを送り続けていたのだ。自分に自信が持てず、不安定な状態で暮らしていた息子がどもり始めたのは、その苦しい胸の内のSOS発信だったのかもしれない。私は息子を自分の理想像に近づけることを諦めてやらなくてはいけないことに気づいた。この気づきの後、目の前でどもる息子が急にいとおしく思えてきた。今のままの大ちゃんでいいの。どもってしゃべるのが大ちゃんなのだ。このように考えることができるようになって、私は楽になった。息子との関係も良くなった。
 今、私は息子がどもる人間としての人生を歩むことになっても、ならなくても、どちらでも良いと思っている。私自身、どもりを抱えて、それなりに生きてきた。私にできたことなのだから、息子にできない訳がない。
 話す時にどもる症状をどもりと思うか思わないかは、その人の感性によって決められるものなのだろう。そして、どもりを魅力的な武器にできるかどうかも、その人の気持ちの持ち方次第なのだ。息子には潔く、しなやかに、そして楽しんで自分のどもりに向き合ってほしいと思う。彼のために私にできることは、ぞうさんの歌に歌われているような自慢できる魅力的などもりの母親になることなのだろう。
 ぞうさん、ぞうさん、お鼻が長いのね?
 そうよ、母さんも長いのよ


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