ことば文学賞 2013年度


最優秀賞 あるどもり人(びと)の告白 丹 佳子  
 

 小さいころから本を読むのが好きだった。いろいろな種類の本を読むよりは、どちらかといえば、好きな本の好きな台詞や個所に線を引いて、何度も何度も繰返して読むのが好きだった。ひとりで好きな本の世界に没頭しているのは、至福の時間だった。
 中学のときに、遠藤周作の「白い人・黄色い人」を読んだ。人間の悪魔性と信仰を問う作品であるが、・・・

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優秀賞 わるくない 嶺本 憲吾  
 

 誰だって思い出したくない過去はある。見たくないのに時々頭の中で瞬間的に持続的に蘇ってくる。悪夢としてでてくる時もある。私の場合はあまりにも拒否していたためか夢にさえでてこなかった。初めて公にどもった時のことを私は忘れることができない。・・・

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優秀賞 昼飯の問題 掛田 力哉  
 

 北海道の田舎町にある大学に進学した私に、最初に訪れた試練は昼飯の問題であった。多くの学生は、カフェテリア式の学食で昼食をとる。しかし、列に並んで「○○下さい」と大声で言わなければいけないそのシステムは、私には地獄の所業であった。・・・

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2013年度 最優秀賞

あるどもり人(びと)の告白

丹 佳子

 小さいころから本を読むのが好きだった。いろいろな種類の本を読むよりは、どちらかといえば、好きな本の好きな台詞や個所に線を引いて、何度も何度も繰返して読むのが好きだった。ひとりで好きな本の世界に没頭しているのは、至福の時間だった。
 中学のときに、遠藤周作の「白い人・黄色い人」を読んだ。人間の悪魔性と信仰を問う作品であるが、この中で重要な登場人物のひとりである醜い顔を持つ神学生のジャックは、斜視のせいで父親からも嘲られて育った主人公に言う。「醜いことは辛い(中略)だが十四歳のとき、僕は自分の顔立ちが十字架であることを知ったんだ。キリストが十字架を背負ったように、子供のぼくもそれを背負わねばならぬことを知ったんだ」
 また、主人公が「いくら十字架を背負ったって、人間は変わらないぜ。悪は変わらないよ」と言ったのに対して、ジャックは「しかし、ぼくのほかに、君も十字架を背負ってくれたら。せめて、君が、君の斜視の悲しみだけでも背負ってくれたら。そうした人が増えていったら」と答える。
 どもりで苦しんでいた私にこれらの言葉は衝撃だった。このとき思った。「そうか、どもりは私にとって背負うべき十字架なのだ」
 小さいころから人より少し勉強ができたせいで、うぬぼれていたところはあった。目立ちたがり屋で傲慢なところもあった。そういう私に罰をお与えになるために神様は、私をどもりにしたのだと思った。
 これを友達に話したら大爆笑された。私のどもりはいつもどもるのではなく、普段の会話はそんなにどもらないのだが、授業であてられたときなどに、突然言葉が発せなくなるタイプのどもりだったので、クラスの違う友達は私がどもりで悩んでいるというのを知らなかったせいもある。変な人と思われるのが嫌だったので、その後人に打ち明けることはなかったが、この考えは私の中で重要な地位を占めるようになった。
 神様の考え方自体は、悪くなかったと思う。「若草物語」や「小公女」の主人公たちが苦しいとき聖書を読んで、神様にお祈りしているシーンに西洋的な美しさを感じていた。また、小学校のとき皆が掃除を嫌がった場所を一人で掃除をしていたら、先生が「誰も見なくても神様が見ているからね。掃除して手も服も汚れちゃったけど、心はきれいになっているからね」と言われて嬉しくなった。運動部でもコーチが、礼儀を教えるためであるけれども「きちんと靴やスリッパを揃えていたら、試合の大事なときに神様が運をくれるよ」と言ったことに「なんていい考え方だろう」と感心したものだった。
 ただ、神様とキリストの違い、キリスト教における十字架の意味をよく知らないまま、神様や罰を勝手に解釈したのはまずかった。なぜなら、私の中で神様の暴走が始まったからだ。クラスでのいじめや高校受験などが重なったせいもあり、精神的にかなり不安定な時期だったこともあるが、どもるたびに私は自分を責めるようになった。今日はおごったところはなかったか、人をあざけったことはなかったか。もちろん発言として、そんなことはしていない。だが、一瞬でもそう思うことはなかったか、なぜなら、神様は心の中までお見通しなのだから。そこにおいては、思うこと自体が罪なのだ。そして、ちょっとでもそういうことがあれば、私は神様に赦しを乞うために祈るようになった。「神様、神様、お赦しください。○○さんのことをばかだと思ってしまいました。今日どもったのはその罰でしょうか」日々そんなふうにお祈りしていたと思う。これは少しずつ狂気を増していった。最初は自分のおごりを問うだけだったはずのものが、赦しを乞わなければどもりがもっとひどくなる、いやどもることよりももっとひどいことが自分だけじゃなく家族にも起こるんじゃないかという妄想も入ってきた。祈る姿勢も最初は椅子に座って心の中で思うだけだったが、正座して手を合わせて祈るようになった。祈る時間も長くなっていった。正座しているので足が痛くなることもあったが、それは修業だと思った。どもりが出なければ神様のおかげ、どもりが出ればお祈りが足りなかったため、そう思った。そんなことばかりしていたものだから、勉強には集中できず、結局高校の第一志望のところは落ち、家族も最近あの子は変だということに勘づき始めたところで、私は祈るのを辞めた。祈るのを辞めても、私は相変わらずどもるときはどもり、どもらないときはどもらなかった。祈るのを辞めたのが原因と思われる恐ろしいことも、おそらく起こらなかった。ただ、信仰と思っているものが狂気を帯びるようになることがあること、心に自由がなく素直に喜んだり怒ったりできないことは、非常に苦しいものであることを実感した。余談であるが、その後起こったオウム事件のとき、信者達が「修業するぞ! 修業するぞ!」とあやしいヨガの訓練を受けている様子がテレビで放送されたのを見て、あのときの自分に似ていると思ったものである。
 その後は、それまでのように祈ることはなくなったが、どもりは私にとって十字架であるという考え方は残った。どもっているときの自分に、いばらの冠をかぶり、十字架を背負って、鞭うたれ血を流しながら、裸足で岩場を歩くキリストにイメージを重ね合わせていた。また、どもりの意味を考えたとき、罰ではないにしろ、やはり傲慢にならないことへのストッパーの役割はあるのだろうと思うようにした。それは自分を卑下し続けることにつながり、私は何をしても自信が持てない人間になっていった。
 そういう感傷的な学生時代を過ぎ、なんとか社会人になった。技術系の仕事だったので、受付や営業のように常に電話対応をしなければならないわけではなかったが、みんなが出払っているときは電話に出なければならなかった。社名が言いづらいものだったので、電話では最初からどもって言葉が出てこないことも多々あった。「電話番もできないようじゃ困る」と上司に言われて、後から泣いたこともある。しかし、心の中でいくら傷ついていたとしても、問題なのは現実に電話対応ができるかどうかだ。十字架を肩に食いこませながら、私は必死でタイミングを計り、声をしぼり出した。そうこうするうちに、なんとか社名は言えるようになったが、いつどもるかわからないという恐さは常にあった。仕事がある程度できるようになっても、一生このままみじめなどもりかと思うと、欠落感につきまとわれた。あきらめと投げやりな気持ちを抱えたまま、私の二十代は過ぎて行った。
 三十を過ぎたころ、障がい児のボランティア仲間の紹介で大阪吃音教室の存在を知り、仕事の休みと講演会の日があっていたため、軽い気持ちで参加してみた。このとき伊藤さんの「どもりを受け入れて生きよう」「あなたはひとりではない、あなたはあなたのままでいい」という言葉がすっと私の中に落ちた。そうか、どもりは負のものではなかったのか。気がつくと私は十字架を下ろしていた。目の前に緑の沃野が広がった。心が自由になった。そのままで生きていいのだと思った。
 一つの言葉で人生が変わるということはある。しかし、いつどの言葉に出会うかは運が作用するにしても、それを受け入れるかどうかはこちら側の問題となる。十代で伊藤さんの言葉に出会っていても、それを受け入れられなかったかもしれない。十字架を背負っていると思い、どうにもならない状況にいたからこそ、伊藤さんの言葉がすっと入ってきたのかもしれない。
 今も相変わらず、どもったりどもらなかったりする。しかし、どもっても以前のように悲惨な気持ちにはならない。どもったときは「あせらない、あせらない」と一呼吸入れ、もう一度ゆっくり言いなおす余裕ができた。うまく言い替えができたときは、「私ってすごい」と思えるようになった。今はそんなときの自分を愛しいと感じる。また、油断の穴に落ちないように気をつけながら、できることはできると自信を持てるようになった。
 まだ、「どもりが治りませんように」とまでは祈れないが、どもりであることとJSPや大阪吃音教室の仲間に出会えたことは「福音」だと思っている。

【選者講評】
 「小さい頃から、…至福の時間だった」までの書き出しが秀逸。好きな本の好きなセリフや箇所に線を引いて何度も何度も繰り返して読むという作者の本の読み方が、どのような影響を与えるのだろうか、どう展開するのだろうか、期待が高まる。
 結局は、遠藤周作の「白い人・黄色い人」という本の中のひとつのせりふ、「醜いことは辛い。だが、十四歳のとき、僕は自分の顔立ちが十字架であることを知ったんだ。キリストが十字架を背負ったように、子どもの僕もそれを背負わなければならぬことを知ったんだ」というセリフに大きな影響を受けて、作者は、吃音を自分にとって背負うべき十字架なのだと思う。だが、その後、神様や十字架が暴走し始めて作者を苦しめることになる。 しかし、ことばに影響を受ける人間は、いいことばに出会うことによって、解放されていく。「どもりを受け入れて生きよう」「あなたはひとりではない、あなたはあなたのままでいい」ということばによって作者は解放されていく。小説が好きなこと、せりふに影響を受けるということは一時的には自分を縛ることになったけれども、結局は自分を解放することにつながる、そんな心の軌跡が鮮やかに描き出された。
 十字架ということばがキーワードになって、一遍の短編小説を読むような趣がある。

【作者感想】
 最優秀賞をいただきありがとうございます。2年前の投稿『どもりの遺伝子』で、「うちは家系的にどもりだから、私はどもりの遺伝子を持っているにちがいないという妄想をずっと抱いていた」ということを書いたときに、この『告白』もいつか書きたいと思っていました。昔から妄想癖があったというべきか、あるいはちょっとした強迫神経症だったというべきか。どもりがなければ、私は神を創造しなかったのか、それとも弱さゆえに別の神を造りだしたのか。いろいろ考えますが、この3年間「ことば文学賞」にチャレンジする中で、どもりでつらかった10代20代も、友達と遊んで楽しかったこと、祖母の料理がおいしかったこと、両思いになった相手がいたことを思い出せたことや、両親に愛されて育ったことに気づけたことで、私って幸福だったんだと思えるようになりました。書く機会と賞をいただけたことに、今一度感謝申し上げます。

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2013年度 優秀賞

わるくない

嶺本 憲吾

 誰だって思い出したくない過去はある。見たくないのに時々頭の中で瞬間的に持続的に蘇ってくる。悪夢としてでてくる時もある。私の場合はあまりにも拒否していたためか夢にさえでてこなかった。初めて公にどもった時のことを私は忘れることができない。思春期真っ只中の中学2年の時、社会の授業で本読みをさせられた私は、たった一つの言葉を前に立ち止まっていた。どうしても声がでない。赤が青にならない。教室は静まりかえっている。頭が真っ白になってそして真っ黒になった。先生が「もういいよ」と言って座った後、授業が終わるまでの記憶はない。チャイムが鳴りクラスメイトが近づいてくる。「どうしたん?」「なにがあったん?」私は何も答えることができない。もうおしまいだ。そう思ってたら涙がでてきた。最後の授業だったので、そのまま止まらない涙を流しながら帰った。家に帰って布団に潜り込みまた泣いた。学校にはもう行かないつもりだった。どもった。どもってしまったという事実は耐え難い痛みであり、消えることのない傷跡になった。担任から電話があり親と相談したのだろう、担任からクラスメイトにどもりのことを説明するということになった。2、3日休み土日が過ぎて月曜から学校に行くことになり、私は嫌々ながらもクラスメイトに迎えられ登校して、元の生活に戻っていった。
 でもそれからはなにもかもがどもりを中心に進んでいった。最悪な世界だった。どもりは一気にひどくなり、コントロール不能になり、詰まる事が多くなり、言い換えができなくなり、本読みや発表にますます敏感になった。クラスメイトにからかわれたこともあったがどもりのことを言われたらすぐ涙目になった私に焦ってすぐに謝ってくれたし、本読みで詰まっても何事もなかったかのように接してくれた。今思えば私がクラスメイトの悩みを知ろうともしなかったように、クラスメイトも私が時々どもることなんて誰も気にしてなかった。でも先のことを考えるとどもりを背負って生きていくのは無理だろうという考えしかでてこなかった。どもりは私のタブーであり、家族のタブーであり、私に関わる人全てのタブーだった。本読みがうまくいく時もあった。けど次はどうする? その次は? と思うと、その恐怖で喜ぶことはできなかった。成績は下がり続け、進学のことも将来のこともまったくどうでもよかった。ただ一人で悩み続けることが私に課せられた使命のように思えた。
 父が腹式呼吸で吃音は治るという本を買ってきたのもその頃だった。その本にはつらつらと呼吸法により吃音は改善されると書いていた。ダンベルをお腹にのせて上下させることによって腹式呼吸ができるようになりそれで緊張も吃音も改善されるというのだ。ほんとかよ、と疑いつつも下腹部に5sのダンベルをのせ息を吸い、そして10秒ほど止めてゆっくり息を吐く。それを繰り返す。声をだしてみる。若干治ったように感じる。希望が見えた、と思った。今度こそ本読みに勝つ。そう心に誓った。
 呼吸を意識して本読みをする。いつもより冷静だ。焦ってない。いけると思った。しかしそんな思いはあっけなく、整然と並べられた文章の前に崩れさる。なぜこんなに詰まる言葉を使うのか。悔しい。しかし当時の私はダンベルをお腹の上にのせて上下させることしかできなかった。そのうちにダンベルをした次の日はきまってどもりがひどくなるようになる。より深くどもりが自分の中に根づいた気がした。絶望だ。全てどもりが悪い、本読みさせる先生が悪い、どもりを理解しないクラスメイトが悪い、どもりを隠せなかった自分が悪い。もっと巧妙に隠すようになる。頭の中でどもりそうな言葉を予想し瞬時に言い換える。まるでスーパーコンピューターだ。詰まれば考えてるふりをする。ボケたふりをする。まるで俳優のようだ。現実世界にどもりは存在しない。私の中だけに存在する。誰も私がどもりだとは気づかない。気づかせない。
 高校進学も就職もどうでもよかったので適当に選んで適当に進んだ。運がよかったのでそのまま壁にぶつかることなく進めた。が、就職した電気工事の会社で上司に挨拶して帰るのを避けていたら怒られて、電話番で勝手に社名を言いやすいように略したら怒られて、仕事に対する情熱も持ち合わせていなかったためそのまま半年ほどで辞めた。当然ながらどもりでなかったらという想いはより強くなる。なぜどもりは社会に受け入れられないのか。頭を掻いたり、耳を触ったりするのと同じようにさりげない、気にも留めない行為としてどもりが受け入れられる世界を夢見ていた。
 しかしそんなものは永遠にこない。自分がさりげない行為と同じようにどもっていないのだからくるはずがない。どもりに固執していつも傷つけられたってことばかり考えていた。私はとても独りよがりだった。大阪吃音教室に通うようになって間違った考えだったと気づくことができた。どもる仲間を見て自分もどもりたいと思った。しかし隠し続けてきた自分にとってどもることは難しくなっていた。不思議だ。わざとどもってみたいと思うようになる。けどそれさえもどっちでもいいんだと気づく。どもると決めたらどもってでも言う、言い換えをする時はする。そして人は弱くても強くてもどっちでもいいということ。誰もわるくないということ。いろんなことを学び、いろんな思い、過去、そして生き方を手放した。どもりと真剣に向き合うことを教えてくれた。勇気をくれた。ああ、誰もわるくなかったんだ。あの時の教科書も、先生も、クラスメイトも、自分も、どもりも。誰もなにもわるくなかった。あるがまま、くるがままに現実として受け取っていればよかったんだ。
 そして今、私は思う。自分の夢見ていた世界ではないけれど、すばらしい世界ではないけれど、「少し良い」と「悪い」の中間にある世界で私は生きている。そして私はそんな世界が結構好きだ。

【選者講評】
 一つの文章が比較的短い。その短い文がたたみかけるように、迫り、全体を迫力あるものにしている反面、少し説明不足のきらいもある。中学2年生のときの社会の授業という公の場で初めてどもり、そのことが人生に大きく影響していくことが綴られているのだが、その前の状態はどうだったのかの説明があると、どもり初めのこの経験がより鮮やかになるだろう。
 どもりたくないために、工夫したり、隠したり、言い換えをすることを、スーパーコンピューターのようだと作者は言う。どもる自分を見せないように、多大なエネルギーを使い、ごまかして生きてきた作者は、会社で社名が言えなかったことで、再び、落ち込み、会社をやめる。どもりでなかったらとの思いは、やがて吃音がそのまま受け入れられる社会を夢見ることにつながるが、そんな夢のような世界はどこにもない。どもりに固執し、傷ついたのは、誰が悪いわけでもないことを、大阪吃音教室の出会いで気づいていく。
 最後に作者は、今生きる現実の世界は、夢に見た世界でもなく、素晴らしいものでもないけれど、少し良いと悪いの中間の世界に生きていると認識し、そんな世界が結構好きだとしめくくる。どもっても、どもらなくても、どっちでもいい。弱くても、強くてもどっちでもいいという境地は、作者にとって、とりあえず到達した、生きやすい地点だった。そして、それは、実は吃音に悩んでいる多くの人にとっても生きやすい地点なのだ。

【作者感想】
 優秀賞をいただきありがとうございます。
 どもりをマイナスのものと強烈に意識した原点を文章にするというのは、その過去に何度も帰って思い出す作業をしなくてはならず初めはつらかったのですが、その出来事、そしてその後と続く自分の物語を書くうちに不思議とこれでよかったのかなと思うようになりました。それに書いた直後は自分を慰めてる文章のような気がしたのですが、今読み返してみるとなんだか励まされてる気がします。なぜでしょうか。
 ともあれ一年前に途中まで書いて締め切りに間に合わず放置したのを、今年こそはと焦りつつ締め切り直前に応募できてよかったです。書く勇気をくれたどもる仲間と読んでくださった皆様に感謝いたします。ありがとうございました。

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2013年度 優秀賞

昼飯の問題

掛田 力哉

 北海道の田舎町にある大学に進学した私に、最初に訪れた試練は昼飯の問題であった。多くの学生は、カフェテリア式の学食で昼食をとる。しかし、列に並んで「○○下さい」と大声で言わなければいけないそのシステムは、私には地獄の所業であった。学生数600人にも満たず、ほとんどが顔見知りのような小さな大学で、かつ丼一つも「普通に」注文できない自らの姿を晒す事は、私には耐えられなかった。結果、私は午前の講義が終わると一目散に学生寮に帰り、適当な昼食を作って凌ぐ生活を送るようになった。その学生寮の台所で出会ったのが、留学生たちであった。彼らの多くは金がなく、日々の昼食に数百円の金をかけることなど考えられないといった様子で、毎日うまそうな昼食を作って食べていた。自然に言葉を交わすようになり、互いの部屋に集まって共に過ごすようになった。ロシア、アメリカ、韓国、中国、インドネシア…。様々な国から来た学生たちと、片言の日本語でバカな話をするのは、それまで経験したことのない楽しい時間だった。彼らの多くが、私には他の日本人学生と違う「話しやすさ」があると言ってくれた。聞けば、多くの日本の学生は、彼らの話し言葉に文法や発音の間違いがあると、すぐに指摘してくれるという。それは、学生たちの親切心から来るものであることは彼らも十分理解しているが、一方で、心から喜び楽しんで発した言葉を逐一訂正される生活に違和感を持っていたのだ。どもりに悩み、自分の発した一言が相手に伝わるありがたさを痛い程に知る私に、他人の言葉を訂正するなどという選択肢は無かった。「話し下手な」私たちは、自分たちの話し方など全く気にせず、夜が更けるまでくだらない話に花を咲かせた。そして彼らは、あなたも外国へ行くべきだと言ってくれた。勧められるままに私は英語を勉強し始めた。英語で話している間は、不思議とどもらないことにも気づいた。語学力テストを何度も受け、私はアメリカの大学へ交換留学する切符を手に入れた。
 入国審査や大学の入学手続き、銀行の窓口、レストラン…。どの相手も、私が英語を話せないことなどまるでお構いなしといったように、ベラベラと早口でまくしたてる。これがアメリカの流儀かと圧倒されながらも、国籍、外見、話し方など全く関係なく一人の人間として対等に扱われているようで、私にはむしろその流儀が心地よかった。しかしながら、英語が満足に話せないという現実はすぐさま学生生活に深刻な支障をきたし始め、外へ出て誰かに会うのも恐ろしく感じられるようになってしまった。授業が終わるとすぐに寮の部屋に戻り、ベッドに寝転んで悶々と過ごす日々が続いた。
 アメリカの学生寮は、ルームシェアが基本である。同居者はアメリカ人のKくん。物静かで紳士的、おまけに超ハンサムなKくんは、いつも優しく接してくれた。ある日、私は日本の兄弟から初めて届いた手紙に涙していた。アメリカ人男性は人前で涙を見せることが滅多に無い。“Are you OK?”と彼は心配げに私に尋ねる。私は手紙が嬉しくて泣いているのだと答えた。その日のことである。講義が終わりいつものように部屋に戻ると、今度はKくんが手紙を読みながら泣いていた。私の前では涙しても良いのだと思ってくれたのだろうか。私は勇気を出して尋ねる。“Are you OK?” 彼は答える。遠く離れた恋人に会いたい。離れすぎて、他の男性と「できて」しまうのではないかと心配でならないと。いきなりの恋愛相談に私は面食らう。何と答えるべきか。ベッドに寝転んで必死に考える。少ない恋愛経験を総動員し、頭をフル回転させて、私はつぶやく。“just believe”「信じるしかないよ」私はそう答えたつもりだった。“I don't know, but just believe”「俺はよくわからないけど、でも信じるしかないよ」と。こんな気障なセリフ、それまでの人生で吐いたことはなかった。彼は静かに、“Yes, yes.”と答え、頷いてくれているようだった。暗い部屋の天井を見つめながら、静かに言葉を交わした。英語は私に新しい力を与えてくれるかも知れない。ずっと心の内にあったもの、言ってみたかったこと、本当は自分にも言えたはずのこと。飲み込み続けてきた言葉が、英語を使ってなら表現できるのではないか。
 その日から、私は拙い英語でも構わず、別人のように話し始めた。世界中から集まった留学生たち、エレベーター内でふと目が合ったご婦人、毎日買い物したコンビニの店長。学食の列に並んで、「Double cheese burger!」と大声で注文するようにもなった。食堂の列に隣り合わせた学生とも話した。これほど多くの人と言葉を交わしたことはない程、私は毎日よくしゃべった。どもりたくない、どもる姿を見られたくないと自らを小さな殻に閉じ込め、他者との距離に悩み続けた日本での自分。そんな自分がアメリカという全く異なる国、文化、全く異なる言語の中で、初めて人と関わる楽しさを知り、他者の言葉に耳を傾ける喜びを知るようになったのだ。そして、留学も残り半年となった時、英作文の講義が始まった。
 「コンサートに赤ん坊を連れていく親について」「なぜ人間は他者を蔑むのか」「アメリカ人は勤勉か」「通学路にアダルトショップが出来ることへの親たちの過剰な反応」…。英作文の授業では、それまで自分が考えたことも無い課題について作文する宿題を毎週のように与えられた。乏しい知識と経験を総動員して文章を書きあげる作業を支えてくれたのは、幼い頃より「書く事」でのみ唯一自分を表現してきた、自身の文章力だった。日本語で生み出した考えを、辞書を駆使して何とか英文に仕上げる。本来の英文には無い不自然な言い回しが却って新鮮な印象を与えるらしく、「C」「B+」と評価は次第に上がっていった。自由課題が始まると、私は幼くして別れた父親のことや三つ子の兄弟のことなど、それまで他人に詳しく話したことも無いような個人的な話を書き始めた。そして、「人生における重要な出来事があなたをどう変えたか」という課題で、私は吃音に悩み続けてきた事、どもる姿を見せまいとあらゆる表現から逃げ続け、ついには唯一の表現手段であった「書く事」すらも出来なくなった小学校での日々を綴った。いくつかの本との出会いが、自身の苦しみを客観的に見つめる力をくれたこと、苦しんだからこそ教師になりたいと誓ったこと、再び「書く事」を取り戻したことなどを、出会ったばかりのアメリカ人教師に読んでもらいたくて、必死に書いた。教師からは、「beautiful essay」「私はこの文章をとても楽しんで読んだよ」という賛辞と共に、初めて「A」の評価をもらった。
 自分はその思いを存分に表現して良いし、誰かにその言葉を受け止めてもらって良いのだということを、アメリカ生活は私に教えてくれた。日本で出会った留学生たちを思い出す。皆、片言の日本語でも気にせず、自分の思いや考えを堂々と表現していた。むしろ講義の中で意見を表現できず縮こまっていたのは、彼らの文法や発音を逐一訂正していた日本人学生の方であった。留学生たちが私に伝えたかったのは、これだったのかも知れない。
 余談になるが、アメリカ生活もいよいよ終わる頃、ある事に気付いた。英語を話し慣れた私は、いつしか英語でもどもるようになっていたのだ。驚くと同時に、「やっぱりな」というような妙な安心感があった。日本語と同じように言い換えをしたりしながら、何とか生き抜く日々が始まったが、不思議と日本にいた時のようなしんどさも、恥ずかしさも、劣等感も感じられなかった。吃音教室で教えてもらった「自分はそのまま存在しても良いのだ」ということの基本を、私はあの時少しずつ分かり始めていたのかも知れない。
 日本に戻った。特段大きな変化も無い、かつてのような学生生活が始まった。不満もないが、毎日精一杯生きていたアメリカ生活を思うと、何とも言えぬ寂しさがあった。ある日私はふと思い立って、学食の列に並び、大声で注文してみようと考えた。思い切りどもるかも知れない。それでも構わない。私は顔見知りの学生たちの列に並び、前から食べてみたかった「牛トロ丼」を注文することにした。順番が来る。「ぎゅぎゅ…牛トロ丼下さい!」少しどもったが何とか注文できた。誰も私のことなど見ていない。なあんだ、こんなに簡単な事だったのか。私の昼飯の問題は、ようやく解決した。私は私のままで良くて、自分の言葉で表現し、自分の言葉で欲しいものを手に入れて、生きていっていいんだ。私はこのことに気付くために、遠いアメリカまで行ってきたのかと自分で可笑しくなった。初めて食べる牛トロ丼はとても甘くて美味かった。ふと見上げた牛肉の産地欄には、「アメリカ」と書いてあった。

【選者講評】
 同じように吃音を体験した人でも、このタイトルを読んで、すぐにピンとくる人と、何のことか読み終わって初めて分かる人とに分かれることだろう。ひとりのどもる人の、吃音のとらわれからの解放の道筋が、昼飯をキーワードとして、ていねいに記されている。
 食堂で注文できない苦労が、寮に逃げ込むことで、留学生と知り合う貴重なきっかけとなり、それが海外留学にまで発展していくのが興味深い。 人と関わること、人と人とのコミュニケーションについて、やはり吃音は大きな気づきのきっかけを与えてくれる。
 アメリカ留学の経験が作者を変えた経緯が、いくつかのエピソードをもとに綴られる。帰国し、再び始まった日本での大学生活は、特別に変わったことはないと言いながら、作者はそれまで逃げてきた、食堂での注文に挑戦する。「牛とろ丼」を注文して昼飯の問題は解決された。その牛肉の産地が「アメリカ」だとのこと、ユーモアを効かせてしめくくっているのがおもしろい。

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