ことば文学賞 2004年度


2004年度 最優秀賞

母との思い出

橋本 貴子

 私が母に真剣に吃音の相談をしたのは5年前のゴールデンウィークです。
 社会人になってまだ、1ヶ月程で会社での電話に相当まいっていた時期でした。吃音の正しい知識もなく毎日家に帰っては受話器をもって、電話の練習をしたり発声練習をしていました。
 大学の友達と卒業以来ひさしぶりに集まると皆、まだ仕事に慣れないけど、少しずつ覚えてきて楽しくなってきたなどの話を聞くと電話で悩んでる人もいましたが、私みたいに取り次ぎができないとか会社名が言えないなどそんな単純なことではありませんでした。
 私は皆がとても生き生きしていてうらやましくなり、私は皆とは違うんだとますます落ち込みました。
 その翌日だったでしょうか。父は出かけており、姉も妹もそれぞれ彼氏とデートの為に朝から出かけて私は母と2人でした。その日は本当にいい天気でした。私は家で何をするのでもなく、ボーッとテレビを見たり、姉や妹のことをうらやましく思い、またどうして自分だけどもりなんだろうと考えたり、ダラダラと過ごしていました。
 そんな時、私に元気がないのがわかったのか、急に母が「貴ちゃん、お弁当持って浮見堂に行こう! こんないい天気に家にいても仕方ないやん」と誘ってくれました。私は、落ち込んでいたので外に出る気持ちにはなれなかったのですがせっかく誘ってくれてるのに断るのも悪いなとそんな気持ちで家を出ました。浮見堂は家から歩いて10分もあれば着くのですが、本当に久しぶりでした。
 久しぶりの浮見堂は、新緑がきれいで、観光客がたくさんいて、ぽかぽか陽気でとても気持ちよかったです。芝生の上でお弁当を広げて食べました。いつもと変わらないお弁当なのにすごくおいしくて来てよかったと思いました。
 お弁当も食べ終わり、2人で少し歩いてベンチに座りました。
 そこで、私は急になぜ話そうと思ったのかはわかりませんが、吃音で悩んでいることを言いました。就職活動の時に少し言ったことはあるのですが、会社に入って慣れてきたら治ると思っていたので、真剣には話していませんでした。
 「カ行とタ行が言いにくい」「最近、ア行も言いにくくなってきて、電話で最初にありがとうございますのアが出ないのがすごくしんどい」
 母は「えー!そんなん初めて知ったわ。そんなことってあるんや。でもいつも言えてるやん」
 「それは私が言い換えしてるからやねん」
 「それやったら貴子のタも言いにくいん?」
 「うん」
 母は、すごく驚いた様子でした。私は言いたいことが言えて少しすっきりしましたが母は考え込んでいるようでした。
 それからしばらくたったある日、テレビか雑誌で見たのか分かりませんが、左利きを右利きに無理矢理直すと吃音になるという情報を聞いたらしく、「お母さんのせいかな?」と言いました。確かに私は小さい頃お腹が一杯になると、食べるのがいやになるのか左利きになっていたような気がします。
 しかし、私は中学2年の時の塾の先生のことが怖くて、発表するときにだんだん言いづらくなって吃音になったと思っているのでそれは違うよと言いました。
 また、熱海までメダルをもらいにいって気というか念力というかかけてもらったりしました。それをしたら吃音も治ると母もなんとかしようと必死だったようです。
 本当に母に心配をかけて申し訳ないと思っていました。
 それから、私はこのままだと会社にいられなくなると思って、吃音を治しに話し方教室へ行きました。母も賛成してくれていましたが。かなりの高額な為に心配もしていました。
 ですが、1年程たった時に、ここでは吃音は治らないと見切りをつけました。
 次に私が行ったのが吃音と上手くつきあおうというのがどんなのか知りたくて、大阪吃音教室に行きました。そこではみんなが堂々と楽しそうに吃っていて、前の教室のように吃ったら注意されていた世界とは全く違っていました。私はとても満足した気持ちで家に帰ると母が玄関の前で待っていてくれました。私は「吃ってもいいんやって」と教室での様子を話ました。母も「そうやで、吃ったっていいんやで」とこたえてくれました。
 その日以来、どもりの相談は教室でするようになり、母にはしなくなりました。
 そして、家でもどもれるようになってきました。それでもたまに吃音の話になると「なかなか人にわかってもらえない悩みを抱えてがんばっている」と言ってくれますが、今の私は母が思っているよりもずいぶん楽なので「今は本当に全然、悩んでないから心配はいらないよ」というのですが、わかっているのかわかっていないのかよく分かりません。
 ですが、わかってもらおうと母と話合うつもりはありません。説明するよりも私が元気でいる姿を見せるのが何より母に心配をかけた恩返しだと思っています。
 あの日、浮見堂で真剣に話を聞いてくれたことは私にとってとてもよかったことでした。
 否定されたり、そんなことで落ち込んでどうするのなど言われていたらもっと落ち込んでいただろうと思います。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

*** この作品は『吃音を生きる』に収録されています ***

【選者 五孝隆実氏講評】
・最初に読んだ時は、さほど強い印象はなかったのですが、2度目、3度目になるといいなあと感じました。飾り気のない、素直な文章。たんたんと書いています。すっと読めました。分かりにくいところは、「熱海までメダルをもらいにいって……」の一個所だけでした。
・テーマも、お母さんとのからみだけに統一されています。「吃ってもいいんやって」「そうやで、吃ったっていいんやで」。なにげないやりとりのなかで、親子の愛情が描かれています。お母さんの愛情をしっかりと受け止めていることが伝わってきました。
・吃音と上手につきあおうという気持ちになるのは難しいことだと思います。でも、この筆者はやり遂げるような気がします。読者にそう思わせるというのは、この人の文章の力でしょう。
・難は句読点の打ち方。もっと考えた方がいいでしょう。句読点の打ち方は人によって様々のようですが、私はかなり多く打つ方です。私は皆さんと違って実際に声を出して読むことはしませんが、頭の中では書きながら声を出しています。リズムを考え、言葉を切った方が良いと思ったところで句読点を打ちます。

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2004年度 優秀賞

三つ子の魂 百までも

峰平 佳直

 今年47歳になった私のどもりが、突然大きく変わった。
 症状がひどくなり、どもりの不安不満が激減した。

 平成15年11月、通勤途中にある羽曳野病院結核病棟で、85歳の父親が私に話した。
 「こここ〜んど来る時、いいいいいいいそじまん、も・・もって来てくれ。」
 父親が他の病院に移動するまで2ヶ月間、私は毎日、着替えを持って通い続けた。そして、父親の、子供見たいな素直などもりを聞きつづけた。

 それまでの父親は、どもる事を嫌い、「どもる人はだめだ」と感じている人間だった。私は父親と同じようにどもりがちであったため、幼年期の私は「どもる人はだめだ」を父親の暗黙の「教え」として受取り、46歳までしっかりと持ち続けた。
 小学校、中学校、高校時代、暗くて寂しい時間を過ごした。「どもる人はだめだ」を心の中に持って。
 友達と、どもりながら楽しく会話をする事など考えられなかった。

 18歳、今の会社に就職して、心やさしくしてくれた先輩が私に聞いた。
 「峰平君は、なぜ自分の事をそこまで卑下して、悪く言うのか。」
 だめな人間だと思っていた私には、その質問が不思議な気がした。
 会社の電話は恐怖だった。電話の用事は、すぐには済ませられない。
 どもりそうだと感じたら、自信が湧いてくるまで半日ぐらい後回しにしたり、トイレや屋上で小さな声で発声練習をして、気合をいれてから電話をした。

 自由に使えるお金ができ、どもりを治そうと決意して、大阪の吃音矯正所に通い続けた。そこは、「堂々と、ゆっくり話す習慣が身に付けば、どもりは治りますよ」と教えていた。
 3年間、本の朗読、外に出て道を聞きながら歩く実地訓練、人前でスピーチをする。私はがんばった。
 私は矯正所の中では堂々と話す事が出来た。
 今思い返せば、まわりみんなが「どもる人はだめだ」ばかりである。自分ひとりでは無い、劣等感を持つ事が無かったのだろう。

 出来るだけ目立たないように、暗く、おとなしく、静かにしている習慣が染み付いていた私に、大きな転機を与えてくれたのは、地域の青年会活動だった。
 多くのイベントをこなしていくには、他人との挨拶、お付き合い、気配りが必要で、自分の殻に閉じこもっていられなくなった。

 22歳の時、同じ道を堂々巡りをしている自分の言葉に限界を感じていた。
 会社に4ヶ月の休職願いを出して、どもりの東大と言われていた、東京正生学院に入学した。
 どもりが治らない事を、ここで初めて知った。
 紹介された本を読みあさり、自分のどもりを考え直す時間を持てた。
 発声練習、上野公園で演説、自律訓練法、催眠術、ディスコ、風俗。泥酔するほど酒を飲み、どもりの集まりには進んで参加した。

 大阪に帰り、アメリカの50年前の学者が書いた、「吃音の治療」に書かれている方法を、実験して見ようと決意した。
 吃音を改善する為には、動機づけとして、日常生活で平気でどもれるようになる必要がある。一大決心をして、家族、友人、職場、近所で、どもりまくった。
 しかし、頭がおかしくなってきた。
 さあ今日もどもるぞう。いやどもりたく無い。弱気な事を言うな。恐い、嫌だ。
 完全な敗北である。
 「どもる人はだめだ」に対抗するだけの気力は、2日が限界だった。

 どもりでかなり悩んでいた女性の友達に、半年ぶりに電話をかけた。
彼女は変わっていた。「どもりは、もう、どうでもよくなった」と言う。
 これが、森田療法に興味を持ったきっかけである。
 恐怖、不安にさからうな。そのままで良い。今、すべき事に手を出しなさい。
この考え方は私を救った。
 電話でどもりそうで不安の時、先ず受話器をとった。次にダイヤルを回した。
 声が出るのが遅いので、相手は電話を切った。
 用件を伝えるのがすべき事なので、すぐにまたダイヤルを回した。
 続けて3回目の電話は、私の声が出るまで切らないで、待ってくれる事が分かった。

 24歳の時、東京で知り合った友人の紹介で、吃音教室に参加した。
 23年前の吃音教室は、毎週日曜日に開いていた。
 3、4人が集まり、本を朗読したり、人前でスピーチをしたりしていた。
 近くに4畳半の事務所が有り、水炊きを作って味ポンでみんなで食べた。
 すっかり気に入ってしまって、2回目の参加から、吃音教室の担当者をさせてくれと、当時の実行委員に申し込んでいた。
 「どもる人はだめだ」を、心の奥にしまい込んでいた私には、何処にいても居場所が無いような疎外感を、いつも持っていた。
 しかし、どもる人ばかりに囲まれるのは、自分の存在を確認できた。
 伊藤さん、東野さんが本格的に乗り込んできて、今のようなりっぱな教室になる以前の6年間、集まるだけの質素な集会の輪の中にいつもいて、周りをかき回した。担当が自分一人になっても、教室を続けていく気持ちだった。
 しかし、不思議に次々と新しい担当者が現れて、仲間を増やした。
 「10年遅れた青春だった。」

 吃音教室で、「吃音の受容」が言われ出した。
 私は、どもりを持ったままで生きて行こうと、人に言っていたが、しかし、「受容」の言葉に嫌悪感をはっきり持った。
 ダブルスタンダード。2つの標準を持つ。表と裏がある。理性と感情が違う。言葉と行動が違う。
 どもりを持ったままで生きる事と、受容するは、どこが違うのか。
 受容の言葉は私には向かないと、矛盾を感じながら背を向けた。

 どもる事にアンテナを張り、仲間を作ってきたので、親しくなる女性も、どもる人が多かった。
 しかし、どもる彼女に、いちずにはなれなかった。
 女性の彼女は好きだけど、どもる彼女は嫌い。中途半端な、煮え切らない男。
 空回りの20代の恋だった。

 親戚には、あいもかわらず、話す事ができない。
 無口で、暗く、真面目なんだけど、ちょっとたよりない印象だったと思う。
 当時は不思議で、何故かわからなかった。
 今は分かる。どもって話したら、父親が嫌がるからだ。

 父親が、大阪市内の病院を入退院繰り返していた時、自分の葬式が近い事に気がついて、「わざわざ」、結核を発病して、私の会社の近くに強制入院してきた。
 「こここ〜んど、来る時、いいいいいいいそじまん、も・・もって来てくれ。」
 2ヶ月間、父親は子供見たいな素直などもりを、「強制的に」私に聞かせた。
 そして、何故か2ヵ月後、結核菌は消えて退院した。

 父親は、幼い息子に「どもる人はだめだ」の種を植え、あらゆる攻撃にも耐え抜いて、しっかり実らせ、収穫期にすべて刈り取っていった。
 来年の春は自分で決めた種をまきなさいと、言い残して。
 平成16年6月5日、朝ご飯を食べて、昼穏やかに、85歳で他界した。

 完全犯罪を成立させて、真実が分かったときは、天国へ高飛びである。
 今、天国で悪意のある顔をして、ニヤっと、こちらを見ている気がする。
 葬式では、父親の計画どおりに、私は親戚の前で、子供見たいに素直にどもりながら、堂々と威厳を持って、喪主の挨拶を済ませた。

【選者 五孝隆実氏講評】
・構成がうまいです。最初の段落、えっと思わせる。相矛盾するような表現を並べ、どういうこと?と、読み手の興味をつなげています。そして、最後の段落で見事にまとめています。構成を考えているなあと思ったのはこの作品だけです。段落ごとに話を変えて展開しているのもいい手法だと思います。
・どもりを持ったまま生きていこうという境地に達しても、「どもる人はだめだ」という父親からの呪縛から逃れられなかった、父の死で初めて解放され、素直にどもれた、というのが大意なのでしょう。しかし、私には父親の呪縛だけの問題かと感じました。うまく説明できないのが残念ですが、筆者が心の中をもっともっと見つめれば、違う文章になったような気がします。
・また、いらないと感じる段落がありました。個々の文章でも、分かりにくい個所があります。特に最後の3段落はとくに分かりにくいです。説明不足、舌足らずというより、もっと分かりやすく説明することから逃げているような気がしました。惜しいです。

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2004年度 優秀賞

マイナス+マイナスは?

田辺 正恵

 45歳の私と19歳の長男には吃音という共通項がある。4歳の息子が吃り始めた時、目の前が真っ暗になった。頭の中が真っ白になって何も考える事ができなかったのを今もよく覚えている。
 私は吃音が原因で小学校の時苛められた経験があり、この記憶を引きずりながら生きてきたので、吃る息子が自分のように苛められる! あんな辛い思いをしたらどうしよう、とそのことばかり気になった。
 コンプレックスと自意識過剰の思春期を送っていた私は中2の時、開き直って自分なりに吃音への姿勢を決めた。それは「吃る事を隠さない」、親しくなりたい人には積極的に自己開示していった。喋れば分かるのだから隠してもしかたない、吃る自分を分かって欲しかった。自己開示してそのために友達を失う事はなかったからこれは成功したのだと思う。でも、「私は吃るの」と人に言う時、とても悲しかったのも事実だ。吃りさえしなければこんな事、言わなくても良いのだから。心の中で泣きながらそれでも自分を知って欲しくて、吃る事を告白し続けた。
 私の吃る事へのイメージはどう考えてもマイナスだ。自分が吃り出した時から息子が吃るまで20数年の時間が流れていて、その間に学校に行き、就職をし、結婚、出産とそれなりに生きて、小学校のイジメ以外に吃音で決定的に打ちのめされた事がないにもかかわらず、「吃る事は悲しく、辛く、なりたくないこと」だ。だから息子が吃るようになった時、悲しかった。「親子で吃るなんて!」
 吃る息子を育てる事は自分の吃音と向き合う作業でもあった。息子には「吃音は悲しい」イメージを持って欲しくなくて「ことばの教室」にも行かず吃音を矯正する事は一切しなかった。矯正する事は直すべき自分がいる事で、それは自己否定に繋がると思ったから。
 息子の吃音を否定したくない、自分の吃音は中2の時、認めたのだから息子の吃音も直視できるはずだった。でも、できなかった。思春期に決意したあの覚悟はなんだったのだろうと思うほど、吃る息子を見るのは悲しかった。私が息子にしてやれたのは、「吃るようになったけど、吃る事に負けないで!」とエールを送り、先輩の吃音者として内心のはらはらを隠しながら見守る事だけだった。吃音を言い訳にしない生き方をして欲しかった。私はそうしてきたという自負もあった。でも、そう願いながらその願いの裏側には、私の中の吃音に対する明らかなマイナスイメージがある。吃る自分を隠さない、でも、隠さない生き方をせざるをえないのって悲しい、自分ひとりでも充分辛いのに子供もなってしまうなんてダブルパンチだ。マイナスが二倍になってしまう。
 そんなふうに思いながら10数年が過ぎて、私は近頃、親子で吃る事について以前とはまったく違う考えになっている。
 それは、「吃る息子で良かった!」
 私は息子が吃り出した時、息子に自分を重ねてイジメを心配した。自分のようになったらどうしようと思った。事実、息子は吃音をからかわれ、苛められた。よく、学校から泣きながら帰ってきていた。でも、彼は私と違ってその記憶に引きずられてコンプレックスにさいなまれていない。親子で、吃音という共通項はあるけど彼は私とは違う人間だ。違う人間だから吃音への対応も当然違う。「吃音は悲しい」は私の感情であって誰もがそう思うとは限らない。この事を息子は私の傍で育ちながら私に教え続けてくれた。思い込みの呪縛から解いてくれた。吃る息子を育てなければ、わからなかったと思う。
 親子で吃って悲しいマイナスの二倍じゃなくてマイナス+マイナス=プラスだという事に気付いた。息子は私にとって一番身近な吃音者であり大切な事を教えてくれる人生の師匠だ。育児をして子供を育てたのは確かに母親である私だが、私を人間として育ててくれたのは子供だ。
 私には三人の子供がいる。吃音のある長男からはいろいろな吃音者がいる事を、吃らない長女と次男からは吃らない側から見た吃音者の姿や本当にさりげない優しさを教えて貰った。
 自分が自分らしく、生きていく上で大切な事を子供達に教わりながら、「親子で吃るのも悪くないかも!」と思っている。「吃ることは不幸じゃない」と気付いたこの頃である。

【選者 五孝隆実氏講評】
・どもることのつらさ。誰かも書いていましたが、本人にしか分からないと思います。さらにわが子がどもりだしたときの母親の気持ちとなると−−。いい文章です。
・やはり心の根っこに吃音へのこだわりが残っているのでしょう、子どもの吃音を機に自分の心の中を冷静に見直し、跳ね返していく力が文章によく出ています。
・「吃音は悲しい」という呪縛を持たない子どもが本当にいるのでしょうか。この思いは私だけではないかと思います。なるほどなあと読む人が分かるように書くことができれば、もっといい文章になったと思います。

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